宮﨑駿の映画は何を伝えようとしてきたのか? 第4回『風立ちぬ』

宮﨑駿映画を考える【第4回】

「だからファンタジーはね、今できないんですよ。(…)陰々滅々としたファンタジーもね、キラキラしたファンタジーもね、両方とも嘘になる。そういうとこに僕らはいると思ってます。それは原発事故の前から、リーマンショックがあった時から、来ると思いました、ファンタジーは作れない、と」(『続・風の帰る場所』p182)

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フィルモグラフィの大きな断層

 ここまで、宮﨑駿の映画作品の変遷を追ってきた。資本主義や科学が悪だとし、アニミズムや「古き良き日本」を求めていたのが80年代の宮﨑であった。これを「宮﨑アニミズムI」と呼ぼう。それに対し、90年代には冷戦崩壊とユーゴスラビア内戦、スタジオジブリの経営などで「二項対立」を批判するようになっていく。そして、「二項対立ではない」有様を、日本の宗教感覚やアニミズムと結びつけていくようになっていく。これを「宮﨑アニミズムII」と呼ぼう。そして2000年代には、生と死の二項対立が崩れた、異界との「橋掛かり」として映画を構成するようになっていき、『崖の上のポニョ』(以下、『ポニョ』)に至って、「自然と科学」が共同で引き起こした巨大災害までアニミズム一元論で肯定し祝福するような極限に辿り着く。この全肯定を「宮﨑アニミズムIII」と名付ける。

 宮﨑自身もためらっていた通り、ここまで全肯定してしまっていいのかという問題が積み残される。『風の谷のナウシカ』漫画版、『もののけ姫』以降には、「自然と人工」の二項対立も崩れ、全てを高次元の「自然」として肯定し、共産主義や社会主義などの「設計」を否定するような日本の思想に傾斜していくが、そこにも罠がないだろうか。人間の行いがすべて「自然」であり、善悪がないのだとしたら、戦争も虐殺も、環境破壊や差別や貧困も全て受容しなくてはならないのだろうか。核兵器も「自然」なのだろうか。「自然」の観点に立てばそうかもしれないが、しかしながら、等身大の人間として、素朴に、そうとは思えないし、そう考えれば世の中は悪くなるのではないか。人間の営みも全て「自然」と考え「進化論」的な物の見方をすることは、新自由主義以降の価値観に近くはないだろうか。人間が欲望のままに自由に振る舞い、人為や規制を排した結果世の中がうまくいくというドグマの結果としての現代世界を眺めていると、そう簡単ではないと思わざるを得ない。そして、災害も含めた「自然」を肯定し受容することが本当に可能なのかどうかも、東日本大震災を経た現在の我々は、極めて懐疑的に思わざるを得ないし、人間の科学と自然が複合して起こしている気候変動の環境危機に日々脅かされている我々は、宮﨑の『ポニョ』での楽観を全面的に受け容れることが難しいだろう。宮﨑は80年代の終末観を振り返り、それは一発で終わるという甘美なニュアンスがあったが、現実の衰退はそうではなかったと反省しているが、同じように、「自然=アニミズム」一元論の「宮﨑アニミズムIII」の甘美さは、現実の悲惨さと比較すれば、ファンタジーでしかなかったのではないだろうか。

 もちろん、宮﨑はそんなことを分かっている。フィルモグラフィの中での最大の切断の一つである、『ポニョ』と『風立ちぬ』の間には、そのような大きな認識の変更が横たわっている。もうファンタジーを作るべきではない、という認識を彼は語っているのだ。作風もあまりに違うので、少なからぬ観客が戸惑い、本作を高く評価しなかったこともよく分かるし、『CUT』誌で行われる恒例の渋谷陽一インタビューでも、『ポニョ』については自信満々であるのに対し、『風立ちぬ』は不安で自信がなく、これでよかったのか終始懐疑的である宮﨑が印象的である。

 『風立ちぬ』は、活劇ではないので、なかなか分かりにくい。そして、これまで少女を主人公にすることが得意であったのに対し、青年男性を主人公に、その職業と性愛を描くという新たなチャレンジをしている点でも、異色作である。ある人物の「冒険」に寄り添って物語を語るこれまでの作品とは、違う文法で映画が構成されているので、それが従来の宮﨑映画に慣れた観客には観にくいのである。立体的で躍動的な動きは、夢や想像のシーンに押し込まれ、全体のトーンは淡々とさせ、アニメーションの快楽を抑制している点も、宮﨑ファンを戸惑わせた点であろう。静止画の背景美術に力を入れた作りは、宮﨑よりも、むしろ高畑勲の『火垂るの墓』的な作りである。

 しかし、本作は次作『君たちはどう生きるか』と合わせて、とても重要な作品である。それは何をしようとしていたのか、これまでの宮﨑映画と思想との関係でどのような位置にあるのかを、明らかにしていこうと思う。

実父を描く物語

 『風立ちぬ』は、父の物語である。象徴的な意味での父ではなく、宮﨑の実父の物語である。

 一般的には、本作は零戦の設計者である堀越二郎と、文学者の堀辰雄が書いた『風立ちぬ』と『菜穂子』という作品を合成したものと言われている。確かにそうであるが、その上さらに、宮﨑の父の姿が合成されている。

「堀越二郎の評伝をつくったってしようがないと思った。それで堀辰雄なんです。そこに親父まで混ざってきて、わけわからなくなってきて(笑)」(『腰ぬけ愛国談義』p165)

「(二郎の人物造形は、引用者註)世界がいろいろ動いていてもあまり関心をもってない日本人。つまり、自分の親父です。あのミルクホールの給仕の娘がかわいいとか、今度封切りされた映画が面白いとかって言っていた人たちが生きていた世界」(『腰ぬけ愛国談義』p221)

 宮﨑の父親は、第二次世界大戦中、宇都宮で零戦の部品を作っていた。

「伯父が社長で親父が工場長でした。飛行機工場といっても、零戦の風防と夜間戦闘機『月光』の、翼の先の組み立てだけをやっていた、まあそんな程度の工場なんです」(『腰ぬけ愛国談義』p51)

 何故、父を描こうと思ったのか。それは、父が、関東大震災に遭遇し生き延び、かつ、第二次世界大戦をやりすごした人間だったからである。

「僕の父親は大正三年に生まれ、(中略)九歳のとき関東大震災にあっています」「大惨状のただなかにいて、九歳の少年は何を見、感じたのでしょう」「僕には父親がよく分かりませんでした。自分の学んだ歴史では戦争に転がりおちていく灰色のはずの昭和前期を、父親は良い時代だったと言うのです」「思春期にときどき父と口論しました。戦争責任についてです」「国のためなんかより女房のほうが大切だという考えにつらぬかれています」「アナーキーで享楽的で、権威は大きらいなデカダンスな昭和のモダンボーイ」「彼のアナーキーなニヒリズムは被服廠跡で体験したこと(関東大震災、引用者註)と無縁ではなかったはずです」「僕らの課題は、自分たちのなかに芽ばえる安っぽいニヒリズムの克服です。/ニヒリズムにもいろいろあって、深いそれは生命への根源への問いに発していると思いますが、安っぽいそれは怠惰の言いのがれだったりします」(『本へのとびら』p152-156)

 人間が引き起こす最悪の事態としての戦争、自然が引き起こす最悪の事態としての災害。その両者を、『ポニョ』的な多幸感(≒生命への根源への問いに結びつく深いニヒリズム)による肯定ではなく、実際にそこに生きた人間の足跡を通じて、具体的に「どのように受容してきたのか」を探る営み。そのサンプルのひとつとしての、自分の両親という「公的な」=どのように生きるのかを教える動機がここにはあるだろう。そしてもちろん、そのような自分と親しい死者と再会する橋掛かりとしてアニメーションを作りたいという「私的な」動機もあるだろう。

「そうですね。友人がずいぶん向こうに行ってますから。天国とか地獄とか何もないんですけど、僕は。だけど、またどうせ会うんだっていうふうに思ってるところはありますね」(『続・風の帰る場所』p49)

 『紅の豚』で、空に一直線に並んだ飛行機が、いわば三途の川的に流れているシーンがある。これが宮﨑の、あの世と繋がった「異界」の表現例である。『千と千尋の神隠し』の電車や、『ポニョ』の水害もまた「異界」の表現であり、『君たちはどう生きるか』の横一列になった船の列もそうだろう。宮﨑作品における「異界」は、空と海が結びつく水平線に並ぶ乗り物の列として、水平的に表現される傾向がある。

 本作は、零戦の設計者の話であるのに、飛行機の飛翔の描写は抑えられ、むしろ墜落のシーンが繰り返し描かれ、地面を這う機関車や電車が作中で頻出する。それらのシーン全てを、過去に生きた両親を含む人々や時代ら「死んで消えていったもの」が仮想的に蘇る異界として本作全体が構想されていることを示すサインだと読み取れるのではないか。実際、結婚式のシーンにおいては、能の「橋掛かり」に近い演出が行われている。電車と死者の魂の結びつきと、第二次世界大戦と空襲の物語と言えば、高畑勲『火垂るの墓』の描写も思い起こされる。

 宮﨑は夏目漱石の『草枕』を非常に高く評価するが、漱石は能を習っており、『草枕』には能の謡に似た言葉や内容が確かにある。激しく変動し失われていく時代を受け止めるときに能を参照する点で、『風立ちぬ』には『草枕』の影響が感じられる。

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