【ネタバレあり】『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』結末が暗示するもの
マーベル・スタジオで『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズを手がけてきたジェームズ・ガン監督が、『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』(2021年)、TVドラマ『ピースメイカー』などの仕事を経て、DCスタジオのトップに就任した。『アベンジャーズ』シリーズと『ジャスティス・リーグ』(2017年)を手がけたジョス・ウェドン監督のように、本来、ライバルとなるスタジオで活躍するというケースである。
ジェームズ・ガン監督は、今後の最低4年間、DCコミックの大作映画シリーズの製作を統括していくことになっているので、MCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)とは、少なくとも当分の間、離れることになる。その最後の置き土産となるのが、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズの、とりあえずの最終作とみられる第3作『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』だ。
そんな本作は、シリーズをまとめ、これまでのストーリーを終結させる役割を担っているのはもちろんだが、そのラストへの展開が意外なものとなっている。ただ感動できるだけでなく、恐ろしい想像も含めて、いろいろと考察ができる余地のある興味深い一作なのである。ここでは、本作が用意した結末が暗示するものについて考察していきたい。
「スター・ロード」ことピーター・クイル(クリス・プラット)、ガモーラ(ゾーイ・サルダナ)、ドラックス(デイヴ・バウティスタ)、グルート(ヴィン・ディーゼル)、ネビュラ(カレン・ギラン)、マンティス(ポム・クレメンティエフ)らが集まった、銀河の落ちこぼれチーム「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」。彼らが今回直面するのは、アライグマのような愛らしい見た目だが、性格はやさぐれた中年男性というメンバー、ロケット(ブラッドリー・クーパー)の生命の危機だ。
それぞれ憎まれ口を叩いてはいるが、互いに家族のような愛情を持っている、銀河のガーディアンズだけに、チームの一員の絶体絶命の事態を解決するため、彼らは当然のごとく一致団結して危険なミッションにあたる。その過程で、実験動物として倫理に反する手術や虐待を受けた、ロケットの悲惨な過去が明かされていくこととなる。
落ちこぼれや、はみ出し者にあたたかいまなざしを向けようとするテーマを持つ本シリーズは、本作でとくにその性質を際立たせる。家族や上司、仲間や周囲の人々に、普段から侮られ、軽視されているキャラクターたちに存在価値があるというメッセージ、至るところで強調されているのである。その最も極端な例として映し出されるのが、実験動物だった過去のロケットと、実験動物たちを使って人工進化実験を繰り返す冷酷な科学者ハイ・エボリューショナリー(チュクウディ・イウジ)との関係だ。
それぞれの欠点を許さず、完璧な生命体を自分の手で生み出したいハイ・エボリューショナリーの考え方は、お互いが違いを認めて許容し合う、家族のようなガーディアンズたちが持っている、多様性を尊重する姿勢とは真逆といえるものだ。だからこそ、シリーズ最終作のヴィラン(悪役)として、優生思想を基に研究を進める存在が選ばれたということなのだろう。そんな敵が作る世界を否定し、完璧じゃない個性たちが身を寄せ合って、協力し合いながら暮らしやすい世界を目指すというのが、本シリーズがたどり着く結論である。
一方で、過去に何度も自身の存在意義を踏みにじられてきたロケットは、自分や他の動物たちの生命や尊厳を取り戻すため、ハイ・エボリューショナリーに再び立ち向かうことで、過去と決着をつけようとする。この試みが、シリーズの主人公ピーター・クイルらに大きな影響を与え、ガーディアンズたちそれぞれの独立へと繋がることとなる。
なかでも興味深いのが、ピーターの決断だ。もともと彼は、地球で暮らしていた子ども時代に、母親の死という耐え難い現実から逃げ出している。そんな彼が現実を拒否するのと同時に、突如宇宙盗賊の船が現れ、銀河を冒険するアウトロー、スター・ロードになる未来を迎えたのだ。第2作『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』において、ピーター少年が連れ去られる経緯や、彼の出自が説明されてはいるものの、その内容は原作コミックの設定以上に突飛で、ヒーロー映画のリアリティを基準に考えたとしても、都合の良い妄想だと考えた方が妥当なほど、あまりに荒唐無稽なものだったと感じざるを得ないところがある。
シリーズのこれまでの描写では、盗賊やガーディアンズという、新たな共同体に家族のような存在を見出すことが、彼の子ども時代の喪失を埋める行為として描かれていた。だが、本作の結末では、その最高の家族を離れ、元の家族のもとへと帰還するのである。自宅の芝刈りをして、祖父と食卓を囲んで、ミルクに浸したシリアルを食べるという平凡な日常の場面が、これまでの銀河の冒険の日々との対比として配置される。
なぜピーターは、このような落差を経験しなければならなかったのか。それは、荒唐無稽な銀河の冒険というものが、本質的な意味で、子どもが嫌な現実を忘れるための空想だったということを暗示しているからではないのか。もちろん、シリーズのストーリーが、全部夢のようなものだったと言いたいわけではない。そうではなく、シリアルを食べるという行為を、皮肉めいたものとして強調することで、表面的なストーリーの下に、そう解釈したり連想できる余地のある、メタフィジックな物語構造を意識的に用意したということだ。