稲垣吾郎を稲垣吾郎にした今泉力哉 『窓辺にて』は集大成であり“フェーズ2”の一作に

稲垣吾郎を稲垣吾郎にした今泉力哉

 今泉力哉は日本的な映画作家である。良い意味でもそうでない意味でも。日本的といっても伝統的な日本情緒を写しとるに長けているということではなく、また、日本人の心象を完璧に解き明かしているということでもない。今泉の映画にはキモノや寺社はもちろん、うっかりすると畳ですら画面に登場していないかもしれない。にもかかわらず、今泉力哉は日本的な映画作家だとしか言いようがないように思える。

 どうしてなのかというと、スキンシップを避けたような間の取り方、人間関係の系図、空間の切り取り方がきわめて日本的であって、またこの日本的な奇異さが今泉映画の最大の魅力ともなっているためである。今泉力哉の名前を一躍高めたヒット作『愛がなんだ』(2018年)でマモちゃん(成田凌)に恋する主人公のテルコ(岸井ゆきの)が異常なまでに甲斐甲斐しくマモちゃんに尽くし、甘やかし、付きまとう姿は、世界の観客にはおそらく理解不能の不気味さとして映るだろう。もちろんそんなことは作者には承知の上だ。ここでは愛が人生の問題である前に、生態の風刺であり、民間風俗となっている。

 今泉力哉の最新作『窓辺にて』はこの日本性からいささかなりとも離脱した。稲垣吾郎の演じる主人公・市川茂巳の生き方がいの一番に問題とされ、間の取り方、人間関係の系図、空間の切り取りの日本的ローカリズムが完全に払拭されたわけではないが、少なくとも後景に退いた。『窓辺にて』というこれ以上ないほどシンプルなタイトルから浮かび上がるのは、どこでもいいどこかの、誰でもありえる誰かの、窓辺での時間であり、窓辺での光線の差し込みなのである。だから、『窓辺にて』は今泉映画の集大成であると同時に、フェーズ2の入口でもあるのではないか。

 1年に何本もの新作を発表する多産の作家である今泉力哉は、バリエーションに富んだ題材を取り上げてはいるが、その作風はかなり固まっている。簡単に表現するなら、とぼけた会話劇、チグハグさを強調した会話劇だろう。今泉映画をつうじて最も頻出するセリフは「え?」である。誰かの突拍子もない発言、前後の文脈を狂わせる発言の意図をつかみ損ねた相手(たいていは主人公)が思わず発する「え?」を、今泉映画の中でいくどとなく私は聞いてきたし、笑ってきた。今回の『窓辺にて』でも稲垣吾郎は何回「え?」と言っただろうか。この「え?」の反復から考えれば、稲垣吾郎演じる茂巳もまた、きわめて今泉的な登場人物だと言える。

 下北沢で全編ロケされた『街の上で』(2019年)は、この「え?」の反復が形成する生態の風刺と民間風俗としての今泉映画の完成形である。『街の上で』の登場人物たちの人物系図は、自己完結した思い込み/他者とのおずおずとした距離の計測に汲々となる姿を完璧に配置され、観客を距離の笑いへといざなう。下北沢という街の景色が若者コミュニティの人物配置を上下左右から補強し、「hickory」という実在の有名な古着屋をメイン舞台にしつつ、風俗描写はリアルさの極致に達し、ありそうな場所、ありそうな人、ありそうな話が積み上がっていく。古着屋、白壁のカフェ、パン屋といったロハスな空間性は今泉映画の生態の聖地である。

 今泉的な映画世界を「きれいすぎる」と批判する向きがあるが、果たしてそうか。少なくとも今回の『窓辺にて』は「きれいすぎ」ではないだろう。なぜならきれいなものを好きな人たちの生態をあくまで描いているからであって、きれいだからといってリアリズムが達成されないとするのは、いささかワルの予定調和に引き寄せられすぎた考え方なのではないか。

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