『リコリス・リコイル』が追い求める“ホンモノ”とは? ポスト・トゥルースの時代への警鐘
2022年の夏アニメの多くが折り返し地点に差し掛かろうとしているが、その中でも特に注目を集めているのは、やはり『リコリス・リコイル』ではないだろうか。
A-1 Pictures制作の本作は、オリジナルアニメでありながら、放送が開始された当初から「バディもの」あるいは「本格アクション」の要素で人気を博している。『WORKING!!』や『ソードアート・オンライン』シリーズなどの話題作で、キャラクターデザインや総作画監督として経験を積んできた足立慎吾の初監督作品であることも特筆すべきポイントの1つだろうか。
本作は日本を舞台にした作品であり、劇中の東京では、Direct Attack(以下、DA)と呼ばれる秘密組織に属するエージェント「リコリス」たちが犯罪を未然に防ぐことで「平和」を維持している。
物語の序盤は、そんなリコリスとして活動する錦木千束(以下、千束)と井ノ上たきな(以下、たきな)の2人が出会い、任務に取り組んだり、日常生活を共にしたりする中で絆を深めていき、バディとして結びついていく過程にスポットを当ててきた。
その中に、本作の大きな物語、あるいは作品に通底するテーマに絡むピースが散りばめられており、第5話が1つの分岐点となって、そのピースたちがつながりを見せ始め、物語が動き始める。
今回は、そんな『リコリス・リコイル』が描こうとしているテーマについて考えてみたい。
目を背けること、ニセモノの平和への逃避
『リコリス・リコイル』において、リコリスあるいは主人公の千束やたきなのゴールはどこにあるのか。それは、第1話の冒頭のナレーションで明言されているように「平和」な日本を維持し続けることだ。
日本人は規範意識が高くて、優しくて、温厚
法治国家、日本
首都東京には、危険などない
社会を乱す者の存在を許してはならない
存在していたことも許さない
消して、消して、消して、きれいにする
危険は元々なかった
平和は私たち日本人の気質によって成り立ってるんだ
そう思えるのが、いちばんの幸せ(『リコリス・リコイル』第1話より)
しかし、こんなナレーションが流れている一方で映像を観てみると、リコリスたちが「社会を乱す者」を実力行使で排除している様子が映し出されている。
この映像とナレーションのギャップが実に皮肉めいていると言える。
私たちの生きる現代は、ポスト・トゥルースの時代とも呼ばれる。そこでは、客観的な事実よりも、虚偽であったとしても個人の感情に強く訴えるものの方が強い影響力を持ち、それが事実を凌駕するとされる。
『リコリス・リコイル』で描かれる日本(東京)における客観的な事実は何だろうかと考えてみると、それは「東京には社会を乱す者があふれており、危険で平和とは程遠い」ということになるのだろう。これは、第1話の冒頭の映像が示す通りだ。
しかし、リコリスが「社会を乱す者」を排除し、DAが「日本人は規範意識が高い」、あるいは「東京には危険などない」などという神話を打ち出すことによって、客観的事実は簡単にニセモノに取って代わられてしまう。
その最たるものとして描かれているのが、旧電波塔である。「事件は事故になるし、悲劇は美談になる」と劇中で千束が指摘していたように、旧電波塔は本来、悲劇や東京を揺るがした大事件の象徴であるはずなのに、今は平和のシンボルとして親しまれているわけだ。
このように『リコリス・リコイル』が描く日本では、人々が目を背けたくなるような過酷な現実は、政府やDAによって、漏れなく心地の良いニセモノへと書き換えられていく。
そして、そこに生きる人たちは、危険や反乱という過酷な真実を直視しようとすることはなく、幸せや平和というニセモノに逃避しながら生きている。
ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェが軽蔑した人の在り方として「Letzter Mensch(末人)」というものがある。これは「いかなる代償を払っても痛みを避ける人」を意味する。
『リコリス・リコイル』における日本(東京)に生きる人たちは、まさしくこの「末人」として描かれている。
例えば、第5話にて刑事の男性が「ああいう子が安心して暮らせるなら、誰が何を隠蔽していようが、何だっていいだろ」と後輩の刑事に言っていたが、これがまさしく「末人」的な態度である。
不都合な真実よりも、政府やDAが中心になって発信する甘美なニセモノを好む。そのニセモノを信じ続けている限りにおいて、日本は「平和」なのだ。
しかし、ここで考えてみたい。それは果たして「ホンモノの平和」なのだろうか?
この問いこそが、『リコリス・リコイル』の中心にあるものだと私は考えている。