『私の解放日誌』が描いた「あがめる」と「解放」 復讐劇に対するカウンターに?
ヨム家の人々は、世間による相対的価値観の外側にいるク氏の存在感が増すごとに、自分たちに閉塞感をもたらすものに気づく。ソウルを卵の黄身と見立て、中心を囲む白身の部分に属するサンポ市にある家を「遠い」と愚痴る。社内の女性に宝くじをプレゼントし口説く男が、自分にだけ目もくれないと嘆く。自分のことばかり大声で話す隣席の同僚を疎ましく思う。契約社員だからバカにされていると感じ、仕事に自信も情熱も持てない。それらの相対から解放されること。ヨム家のきょうだいが通勤電車の車窓から目にする「今日はきっといい日になる」の標語には比較対象となる「昨日」も「明日」もなく、絶対的な決意を表明している。
このドラマが作られた背景には、ここ数年のドラマに市民による復讐劇が多かったことに対する反応があるのではないかと考えている。『ヴィンチェンツォ』や『模範タクシー』、それに対応する『地獄が呼んでいる』や『調査官ク・ギョンイ』については、この記事(参考:『親切なクムジャさん』の影響大? 『地獄が呼んでいる』など韓国復讐劇の共鳴)で考察している。世界的現象となった『イカゲーム』も、経済という一つの指標に翻弄された人間のサバイバルレースだ。虐げられた市民が立ち上がり司法や公権力に立ち向かいスカッとする物語は「サイダードラマ」と呼ばれている。これらのドラマの源流にあるとした、「復讐3部作」で知られるパク・チャヌク監督が今年のカンヌ映画祭で発表した『Decision To Leave(英題)』が、「人はいかにして自己を解放するのか」という内面の葛藤に向かった物語だったことも印象深い。
キム・ドーフン氏は前出のドラマ評で、『私の解放日誌』についてこう書く。
「主人公たちは救われるわけではない。彼らは完全に他の世界から来た人物を通じて少し変わるだけだ。主人公たちを苦しめる些細な日常の敵は、普通の韓国ドラマとは違い、倫理的に処断されない。悔い改めもしない。敵たちはおそらく、ドラマが終わった後も同じ傷だらけの人間として生きていくだろう」(※)
日常の敵は、自らを相対化することなく本能のまま行動するから、他人を傷つける。サイダードラマの主人公たちは、世界を強者と弱者に分け、一方を完全なる悪として怒りの制裁を加える。だが実際の社会はそんなふうに白黒つけられるものでもない。分断を促すよりも、息苦しさを生む同調圧力をひらりと交わせば、呼吸するスペースができる。そのための電力源が、ミジョンがク氏に勧めた「1日5分間のときめき」貯金である。
『マイ・ディア・ミスター』同様、『私の解放日誌』の最終話でも、このドラマのインスピレーション源となったような映画がほのめかされる。今作で長男チャンヒのセリフとして言及されているのは、1998年の『リターン・トゥ・パラダイス』というアメリカ映画。ヴィンス・ヴォーン、ホアキン・フェニックス、ヴェラ・ファーミガという豪華キャストが揃っているが、決して知名度の高い作品ではない。休暇中に訪れたマレーシアで、羽目を外して大麻を吸った3人のうち、現地に残った1人に大麻密輸罪で死刑が求刑される。3人が揃って出頭すれば刑も三等分されて死刑を免れることができる……という物語だが、パク・ヘヨンがこの映画から受け取ったものは友情や倫理観ではない。解脱し解放された人生を歩み始めたミジョンは、自分の人生に迷いを抱えるク氏に、自分が生き残る方法として「1日5分ときめく時間を作る」ことを心がけていると語る。『リターン・トゥ・パラダイス』からチャンヒが受け取ったメッセージは、この「ときめきの5分間」を与えるために彼は生きていくという決意だった。また、悪に堕ちる一歩手前のミジョンを、絶望の淵にいたク氏がかけた1本の電話が救ったのは、この映画が成し遂げられなかった“もう一つのエンディング”のように見える。『マイ・ディア・ミスター』では、それが是枝裕和監督の『誰も知らない』(2004年)で、一般的に映画から受け取るテーマとは異なる、人間の自然治療力を信じるというメッセージに繋げている。
脚本家のパク・ヘヨン氏は、映画が本来伝ようとしているようなテーマやメッセージとは異なるものを受け取り、ドラマの筆致に活かしている。「映画やドラマ、小説などの創作物から観客がどんなことを受け取ろうが自由である」という、当たり前のことを体現しているように思う。それこそが、パク・ヘヨン氏がクリエイターを息苦しくさせる評価や指標から解放され、どんな人生をもあがめるように物語を紡いでいる理由のようだ。
参照
※ https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/1045590.html
■配信情報
『私の解放日誌』(全16話)
Netflixにて配信中
脚本:パク・ヘヨン
監督:キム・ソクユン
出演:イ・ミンギ、キム・ジウォン、ソン・ソック、イ・エルほか
(写真はJTBC公式サイトより)