『カムカムエヴリバディ』がオーソドックスな“生き別れの母探しの物語”にならなかった理由
全ての謎を解き明かし、人や場所・時間を結びつける超絶技巧で大団円を迎えた、藤本有紀脚本のNHK連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』。朝ドラ史上初の試みとなる3世代ヒロインの100年のファミリーヒストリーは、間違いなくこれまで観たことのない作品だった。
その一方で、「感情のジェットコースター」とも言われるスピーディーな展開に「ついていけない」という声、「安子(上白石萌音)とるい(深津絵里)の和解までの物語をもっとじっくり観たかった」「安子がアメリカに行った後のるいの少女時代の葛藤なども見せてほしかった」という声も少なからずあった。
確かに、本作のあらすじだけを譲り受け、他の脚本家が描くとしたら、2代目ヒロイン・るいを主人公に据えた「生き別れの母探しの物語」として、全く異なる、もっと湿度の高い作品を描く人が多いだろう。それがオーソドックスな手法であり、そのほうが見やすい、感情移入しやすいと感じる人もいるだろう。
そうした場合、幼少時のるいを描き、母探しをする過程のどこかで、いったん時計の針を巻き戻し、安子の少女時代を見せる展開になると想像できる。しかし、そうした巻き戻しがなく、時間が順行であること、不可逆であることにこそ、本作の大きな意味があるのではないだろうか。
人生において、ほとんどの人が「あのとき、別の道を選んでいたら」「もっと○○していたら」「どこでボタンを掛け違えたのか」などという分岐点や後悔を持っていることだろう。それを叶える一つの形式が、現在フィクションでは一大ジャンルとなっている異世界転生ものやタイムリープ・タイムトラベルものかもしれない。
しかし、本作の場合の「あのとき、こうしていれば」「どこで間違えたのか」といった後悔には、100年の時代性も深く関わってくる。
「なんでこげえなことになってしもうたんじゃろ。私はただ、るいと2人、当たり前の暮らしがしたかっただけじゃのに」
これはかつて「安子編」終盤で絶望した安子が、ロバート(村雨辰剛)に語った言葉であり、「ひなた編」最終週で、ラジオ出演した“シアトル生まれの日系アメリカ人”アニー・ヒラカワ(森山良子)が突然、岡山の和菓子屋生まれである生い立ちを日本語で告白したときの言葉だ。
もちろんどんなに懸命に生きていても、母一人子一人の生活が、事故や体調不良で突然破綻してしまうシビアさは現代とも共通している。しかし、安子が娘からの「I hate you」をここまで重く受け止め、何もかも絶望して「消えてしまいたい」と思い詰めるに至ったのは、戦中戦後で家族をみんな失い、女性が仕事をする理解もなかなか得られず、「未亡人」となると再婚を勧められた時代背景の困難さもあるだろう。
そして、自身の言葉を機に、喪失から立ち直り、過去と向き合い、母と、自分自身と向き合うるいにも、時間がたっぷり必要だった。
激動の戦中戦後を駆けてきた安子、戦争の傷跡からの復興を経て、高度経済成長の真っ只中に子を産んだるい、そんな祖母・母が懸命に生きて来たからこそ、現代を生きるひなた(川栄李奈)の平和があることが、不可逆の物語だからこそ色濃く浮かび上がる。