『カムカムエヴリバディ』は“今ここにある奇跡”を慈しむ物語 算太と稔の再登場に寄せて

『カムカム』算太と稔の再登場に寄せて

「どこの国とも自由に行き来できる。どこの国の音楽でも自由に聴ける。自由に演奏できる。るい、お前はそんな世界を生きとるよ」

 『カムカムエヴリバディ』第20週「1993-1994」第97話。父・稔(松村北斗)の魂と対面したるい(深津絵里)は、ついに母・安子(上白石萌音)を尋ねてアメリカに行く決意を固めた。るいがずっと封印してきた母・安子との関係。そこに向きあう合うため、るいを32年ぶりに岡山へと向かわせたのは、るいの伯父である算太(濱田岳)の死だった。この苦くも甘い「巡り合わせの不思議」に圧倒される。

 物語のプロローグである第1週「1925-1939」の第1話と第2話を観返してみた。「女は菓子職人になれない」と釘を刺された幼少期の安子(網本唯舞葵)と対になるかたちで、「男はダンサーになれない」と苦言を呈され、家を飛び出した算太。それから幾年月。巡り巡って、振付師となった算太は映画村でひなた(川栄李奈)に出会い、やがてるいと安子を結びつける。ここで、算太が3人のヒロインたちの人生の「裏面史」であり、物語の大きな動力であったことに気づかされる。

 振り返れば、いつもきっかけに算太がいた。放蕩息子の算太を金太(甲本雅裕)が勘当したことから転じて、稔と安子が互いの気持ちを確かめ合い、千吉(段田安則)に2人の結婚を許させた。安子が「たちばな」再建のために貯めていた預金を算太が持ち逃げしたことが結果として安子とるいの離別につながるが、この孤独な少女期を背負って、るいが大阪に出なければ錠一郎(オダギリジョー)とも出会わなかった。

 算太が贈った「あんこのおまじない」と、父親と息子の性(さが)を説く言葉が二代目・桃山剣之介(尾上菊之助)を救い、彼と大月を出会わせ、知らず知らずのうちに算太を大月へと向かわせる。そして、るいが長年蓋をしてきた「安子とのつながり」というパンドラの箱が開く--。

 人生の最後に、まるで野良犬が帰巣本能を発揮したかのように、はたまた「恩返し」と「罪滅ぼし」を一緒にしにきたかのように、るいの元に現れた算太。彼は生涯を通じて、自ら手を離した「家族」を求めてやまなかったのだろう。安子が失い、るいが取り戻し、ひなたが繋げる「家族」。ヒロインたちの物語の「裏」で流れ者として生きながら、算太が切望し続けた「家族」。時に離れ、時に交わるこの「本流」と「支流」が織りなす物語が、算太の“ラストダンス”に乗せて一気に押し寄せる。喜びも悲しみも、後悔も懺悔も、希望も、すべて抱いて算太は踊る。

 算太の前に、幼き日の安子が幻影として現れた。思えば、猛反対する金太の心をほぐし、算太の背中を押したのは、安子の「お兄ちゃん、おはぎのダンスはあねん楽しそうじゃったのに」という言葉だった。幻の安子による「お兄ちゃん、ダンサーになれた?」という問いかけは、「幸せだった?」という問いにも聞こえた。算太の「人生の幕引き」を通じて、安子の人生、そして戦前戦後を生きた数多の人たちの生き様が立ち上がってくる。算太は最後に大きなバトンをるいとひなたに託し、錠一郎を新たな音楽との出会いにいざない、大月家に最後のクリスマスプレゼントを渡して、事切れる。『カムカムエヴリバディ』では様々な人物や出来事が「点」として現れ、一時見えなくなっては、また現れる。そしてそれらの「点」が、見えないところで影響し合い、つながって、長いひとつの線になっていることがわかる。人生もかくのごとし。「禍福」はメビウスの輪でつながっていて、その時々でどちらの面が表に出るか、ということではないだろうか。何が災いし、何が幸いするかは紙一重だ。

 安子とるいを断絶に至らしめた「ボタンのかけ違い」も、もしそのボタンの位置がひとつでも違っていたらどうなっていただろうか。錠一郎との間に、ひなたと桃太郎(青木柚)という子宝を授かり、「ひなたの道」を歩くるいの「今」は存在しなかっただろう。第93話で、トランペッターの夢に挫折した錠一郎の真実を知らされたひなたと桃太郎が、今まで知らずにいた両親の来し方に想いを馳せ、いま自分たちがここにいるありがたさを噛み締めるシーンが象徴的だった。

 人生最初で最大の失恋を経験したひなたと桃太郎を励まそうと、錠一郎が初めて子どもたちの前で、自らの傷口でもあるトランペットを手に取って口に当てるが、やはり音が出ない。そのうえでかけた、「それでも、人生は続いていく」という言葉。これがベース音として、第20週の、またこのドラマそのものの根底にずっと流れている気がする。

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