ヴィルヌーヴ版『DUNE/デューン』の本質的な評価を考察 真価が問われるのはパート2?

ヴィルヌーヴ版『DUNE』の評価を考察

 とはいえ、もともと原作が2部作に対応しているというわけでもないため、原作に準拠して物語が語られていく本作は、パート1のみで一つの映画作品として盛り上がりのある構成になっているわけではない。ここで描かれる、罠に陥れられた公爵たちの悲劇や、ポールが再興をはかるために放浪する貴種流離譚のはじまりが、壮大なスケール感と立体的で繊細な音響で表現されながら、一つの娯楽作品としての面白さに欠けていることに不満を感じる観客が少なくないのは当然のことだ。

 映画ならではの展開やアクションを用意することもできたはずである。しかし、ヴィルヌーヴ監督があえてそのような方法をとらなかったのは、原作と真摯に向き合った結果であると同時に、監督自身がもともとアクションにそれほど興味がなく、哲学性や映像美を重視する作家性を持っているからである。だから本作を楽しむには、物語よりも一つひとつの映像や音を体感し、描かれる古典的な物語に歩調を合わせることが必須となる。

 『スター・ウォーズ』シリーズのように、要所で娯楽活劇を展開させようとせず、あくまで一つひとつのシーンの文学的な意味にこだわっているところは、弱点でありながら、同時にむしろ本作のストロングポイントであり、他の多くのSF映画に対する優位性であるともいえよう。なぜなら、そのようなアプローチで撮られている超大作そのものが希少だからである。見せ場の派手さやアクロバティックな演出に頼らず、堂々とした日本の屏風絵のように「花鳥風月」を表現し、壮大な叙事詩を物語っていく。本作の価値は、活劇の連続によって娯楽表現を成立させる映画の在り方への、一種の挑戦といえるはずだ。

 このような作品を完成に導いたのは、『パシフィック・リム』シリーズや、「モンスターバース」シリーズを製作したレジェンダリー・ピクチャーズであり、ワーナー・ブラザースである。採算を追い求めるだけでなく、クリエイターにとっての夢を実現してきた両者の取り組みについては、最大限評価されるべきだろう。とはいえ、まだ本作の続編製作の正式なゴーサインは出ていないという。

 一方、ヴィルヌーヴのそのような挑戦的な試みが、大部分の観客を納得させられる領域に及んでいたかについては、疑問に感じる部分もある。モダニズム風のシンプルな機能美によってかたちづくられるヴィルヌーヴ監督のイマジネーションは、整理され洗練されているが故に、単純であり地味に感じる部分もある。隅々まで行き届いた繊細な表現は、石庭や美術館のように静謐であり、この雰囲気に退屈さや窮屈さをおぼえる観客がいても不思議ではない。かつて、この原作を映画化しようとしたアレハンドロ・ホドロフスキー監督は、本作の予告映像を観て、「良くできているが、衝撃がない」と語ったという。

 ホドロフスキー監督による、70年代の『デューン』映画化計画については、監督本人や関係者たちが当時の作品づくりについて語るドキュメンタリー『ホドロフスキーのDUNE』(2013年)で語られている。ホドロフスキーは、『エル・トポ』(1969年) や『ホーリー・マウンテン』(1973年) などのアートフィルムで名を馳せた監督であり、自身の芸術を追求するために、スパイスによる幻覚作用と拡大する自意識という要素が描かれる物語に、自身の狂気を全てぶつけるような、常軌を逸した大作を完成させることを望んでいたのである。そういうクリエイターからすれば、本作の演出が大人しすぎると感じるのも、無理はないのではないか。

 だが、その構想があまりにも巨大化したために、ハリウッドの娯楽映画としてしか企画が成立せず、製作上の束縛を嫌ったホドロフスキー監督が降板し、企画は凍結されることとなったのだ。サルバドール・ダリやオーソン・ウェルズに出演を承諾させ、アーティストのメビウスやH・R・ギーガーに映画のイメージを描かせ、ピンク・フロイドらが音楽を担当することになっていた幻のホドロフスキー版は、もし完成していたとすれば、娯楽的な面はともかくとして、サイケデリックかつ、より前衛的な内容になっていたはずである。

 後年、ホドロフスキーが果たせなかった企画に挑戦することになったデヴィッド・リンチ監督は、ホドロフスキー自身が「『デューン』を手がけられる唯一の監督」と述べた通り、『2001年宇宙の旅』(1968年)の美術監督アンソニー・マスターズらとともに、本作同様の壮大な世界観とともに、怪しい機械に飾られたゴシック風の悪夢圧倒的なヴィジュアルを完成させた。

 残念ながら、リンチ監督に作品の最終的な決定権はなく、商業ベースに乗せるために作品は無理にカットされ、監督にとって不本意な出来とはなってしまったが、いくつかのシーンでヴィルヌーヴ版をはるかに凌駕するイマジネーションが展開されているのは、作品を鑑賞した者ならば誰もが認めるところだろう。ホドロフスキー監督は、自分が手がけられなかった企画がうまくいかなかったことに安堵したと、冗談混じりに述べているが、彼が真に恐れたリンチ監督の圧倒的な才能の片鱗は、たしかに作品に刻みつけられているのである。

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