『樹海村』は『犬鳴村』からどうアップデートされたか ほぼ同じプロットの中に感じる革新
恐怖演出、VFXで魅せるホラーの美しさ
もちろん、恐怖描写も随分と変わった。『犬鳴村』の魅力は霊の描き方のレパートリーの豊富さだったと言える。1作品の中に、ありとあらゆるパターンの幽霊を登場させたのは素晴らしかったが、それが怖かったかと言うとどうだろう。病院での“もう一人のお母さん”もそうだが、幽霊の登場シーンの多くが音楽によって盛り上げられ、画面の注目度を高めていた。BGMから幽霊が来るのがわかっていて、その時点ですでに心構えができてしまう。そのせいで、改めてクロースアップされる彼らの姿に恐怖心を抱きにくい構図になっていた。清水崇監督の代表作『呪怨』も伽椰子という怨霊にフォーカスを当てて撮られた作品であるので、幽霊に注目を向けさせるのは彼の作風とも言えるかもしれない。
ところが、『樹海村』はこの辺がとても陰湿になっていて、来るとわかっていても“どんな風にくるのか”分からない。神社のお祓いシーンはその場にたくさんの悪霊が集まってくる様子のインパクトがあるだけでなく、そういう“曰く付きの物”を祓う時も実際はこんな風になっているのではないのか、という説得力さえある。ネット上で知り合った者同士の樹海探索組がアッキーナに遭遇した場面もまた、実際死に行った人が先に逝った人に“その道”を導かれるようなことはありそうでゾッとする。
そして、あのコトリバコ。実際、撮影時にあの箱を映すシーンだけ“必ず”不可解なノイズが発生したという、プロップなのにもはや曰く付きという恐ろしい箱の無機質な存在感。振り返ればそこにありそうだが、その先どうなってしまうのか、その予測不可能さに慄いてしまう。コトリバコ単体の都市伝説そのものの恐怖が、樹海村の成り立ちとストーリー上うまく噛み合っていたことも素敵だった。
それでも私は、『樹海村』の一番いいところはラストにかけてのクライマックスシーンだと思う。ホラー映画とは(少なくとも、良いホラー映画とは)決して「怖さ」だけではない。その恐怖の根源には、大切な誰かを失うかもしれないという「愛」があるからだ。そこに、このジャンルの美しさがある。その人のためなら自分の命を投げ打ってもいい、そんなヒューマンドラマが描ききれていない場合、この「愛」を意識することは難しい。本作では樹海村の悪霊に囚われてしまった姉・鳴を、まずは霊となった母親が救う。そして、精神疾患を疑われて病院に監禁状態だった妹の響は、その不思議な力で姉の危機を察知する。自分のことを蝕もうとする樹海の呪いが病室に蔓延る中、一種のアストラル体になって遠く離れた姉を救おうとする妹。
誰からも理解されず気味悪がられていた少女がパワーに目覚めるという、スティーヴン・キングを彷彿とさせる超能力要素。対して、彼女が立ち向かう悪霊は、森に飲み込まれた人々の姿形をしていて、ギレルモ・デル・トロの世界観から抜け出してきたかのような幻想的なヴィジュアルとそれを表現するVFX技術にひたすら胸を打たれる。人は、生物は死ねば、土に還る。ここでもやはりその説得力が、シーン全体に生かされている。その自然な“死”の状態は、昔の着物を着て両手を前に垂らしながら近づく怨霊よりも、根本的なものなのだ。
ラストで響は鳴を逃がすために自ら樹海に取り込まれることを選び、鳴は木となった響を登って地上に出る。このシーンの意味合いも深い。「Family Tree(ファミリー・ツリー)」という単語が「家系」という意を成しているように、家族は「木」に例えられることがある。大きくなるにつれて、枝分かれしていくもの。つまり、本来はどちらも死んで途絶えるはずだった天沢家だったのに、響がその木を支える役目を担う幹となったおかげで、響がその先に枝を伸ばすことができたのだ。全ての映画の全てのシーンに意味があるべきだとは思わない。しかし『樹海村』はその点が前作と比べてアップデートされていた。
それに、樹海という題材は海外からの注目も浴びやすい。同時期に公開された西川美和監督作『すばらしき世界』がワールドクラスで評価されるべき映画であるように、『樹海村』のVFXと物語のメッセージ性もまた、世界で通用するものではないだろうか。
■アナイス(ANAIS)
映画ライター。幼少期はQueenを聞きながら化石掘りをして過ごした、恐竜とポップカルチャーをこよなく愛するナードなミックス。レビューやコラム、インタビュー記事を執筆する。ふざけて心霊スポットに絶対行かないタイプ。Instagram/Twitter
■公開情報
『樹海村』
全国公開中
出演:山田杏奈、山口まゆ、神尾楓珠、倉悠貴、工藤遥、大谷凜香
監督:清水崇
脚本:保坂大輔、清水崇
企画プロデュース:紀伊宗之
配給:東映
(c)2021『樹海村』製作委員会