宮台真司の『呪怨:呪いの家』評:「場所の呪い」を描くJホラーVer.2、あるいは「人間主義の非人間性=脱人間主義の人間性」

宮台真司の『呪怨:呪いの家』評

【かつてのJホラーVer.1とは何か】

 『リング』『らせん』(1998年)の原作者・鈴木光司とはよく交流した。この要素とあの要素をこう組み合わせたら怖いといったシナリオ学校的な鉄則を多数持ち、文学的というより建築的で、従来の日本の怪談の要素を的確に掴まえる頭のいい人だ。だからこそ、彼の作品は小道具にテクノロジー機器を使う点で新しく見えて、実は古いモチーフを反復する。

 但しデヴィッド・クローネンバーグ監督『ヴィデオドローム』(1982年)にも、鈴木光司的な「つけっぱなしのテレビから何かが出て来る」というモチーフがある。三池崇士監督『着信アリ』(2003年)まで含めて、1980~90年代にはテクノロジー機器をホラーに取り入れる世界的な流れがあった。時代を現代に設定する以上、小道具をアップデートするのは当然だ。

 古いモチーフとは「皆が忘れていくものが、忘れた頃にやってくる」というもの。「忘れられた者が土地に結びつく」というモチーフは、能の伝統もあって「日本の怪談」の基本だ。ただ「旅人がその土地を知らない」という「ワキモチーフ」から「住む人がその土地を知らない」という「新住民モチーフ」へとシフトした時点で「Jホラー」が始まった。

 「Jホラー」の出発点は1963年に創刊された『週刊マーガレット』と『週刊少女フレンド』の少女怪奇漫画だ。前者が古賀新一、後者が楳図かずお。これらは当時の団地に現実に流布していた都市伝説と密接に関係していた。団地住民はその場所が元々何だったのか知らない。その不安が都市伝説を流布させた。僕が幼少期に住んだ団地にも、それがあった。

 ある号室に住んだ家族から自殺者が出た。彼らの転居後に住んだ新しい家族からも自殺者が出た。3回続けてそれが起こった。調べたら墓地を移動した事実が分かった。そこで祈祷師を呼んで住民全員が集まってお祓いをしたら、二度と同じことは起こらなかった。これは僕の実話だが、似た話は小学生の頃に読んだ週刊誌に繰り返し載っていたのである。

 古賀新一『白へび館』(1964年)も似た話だ。新興住宅地の父娘が乗った車が白蛇を踏んだ所から、その土地で忘れられた者による呪いが始まる。呪いは英語でspellで呪文と関係づけられているが、日本の呪いはそれとは違って「思いが何かにヘバり付くこと」だ。その上で「Jホラー」が新しいのは、呪われる側がVer.1と2を通じて「新住民」であることだ。

 だから「Jホラー」は伝統的な「日本の怪談」と違って「戦後の再近代化」批判としての彩りを帯びる。但し50年代後半からの「団地化=第1次郊外化」の段階では新住民はマイノリティだったが、80年代半ばからの「コンビニ化=第2次郊外化」以降になると新住民がマジョリティになる。それが60年代からのVer.1と90年代からのVer.2の違いに繋がる。

【Jホラーに共通の凝視モチーフ】

 『呪いの家』(2020年)に戻って映像モチーフを確認する。鏡が何度も出てくる。鏡が映る度に僕らは「鏡に何か映るかもしれない」と身構えて鏡を凝視する。同じことは下から見上げた2階の窓で揺れるカーテンにも言える。僕らは「揺れるカーテンの向こうに何かいるかもしれない」と身構えて揺れるカーテンを凝視する。似たモチーフが他にも多々ある。

 ホラー映画としては部屋の場面は比較的明るめだが、照明効果で薄暗がりが設えられてある。僕らは「部屋の片隅の薄暗がりに何かいるかもしれない」と身構えて凝視する。これは黒闇の中から大音響と共に後ろから襲いかかる類の、情報の非対称性(監督は知っていて観客はら知らないこと)を使った、黒沢清が言う「卑怯なやり方」とは、真反対である。

 僕らは「鏡」や「揺れるカーテン」が出てくる度に「また鏡かよ~」「また揺れるカーテンかよ~」と凝視して、「そんなの映すなよ~」と嫌になる。黒沢はこれらを「不穏な気配を漂わせる只ならぬもの」と呼ぶが、言い得て妙だ。「不穏な気配を漂わせる只ならぬもの」のモチーフが実は「JホラーVer.1」から一貫してきたものであることに注意したい。

 楳図かずおや古賀新一の少女怪奇漫画にも「凝視=よく見る」が頻出する。「よく見る」と父親の犬歯が少し伸びたように見える。「よく見る」と母親の頬に鱗が付いているように見える。「よく見る」と家族はもう家族ではないのかもしれない……というモチーフだ。これを裏返すと、皆が当たり前だと思って「よく見ない」ことが、批判されていよう。

 「よく見る」と過剰や過少が現れるーー戦後の再近代化が余りに急だった日本ならではのモチーフだ。先に『クリーピー』について述べた空間の過剰や過少(の意味の変化)に結びつけることもできる。昭和の僕らは、空き地や工事現場や非常階段や屋上で遊んだ。30年前に「屋上論」として展開したように、これらは「機能化されていない空間」である。

 要はシステム世界に登録されていない「場所」。学校なら、教室に居れば「学ぶ人」、廊下に居れば「通行する人」、校庭に居れば「休憩で遊ぶ人」だが、屋上に居れば「誰でもない人」。25年前に記した「地べた座り論」もそう。電車やバスやセンター街で地べた座りして「地上70センチの視線」をとるだけで風景が一変、「誰でもない人」になれる。

 この脱機能性=脱システム性を空間から時間へと拡張できる。『ウルトラQ』のケムール星人の回(「2020年の挑戦」)に出て来る「真夜中の遊園地」。『ウルトラセブン』のチブル星人の回(「アンドロイド・ゼロ指令」)に出て来る「真夜中のデパート玩具売り場」。普段は見過ごしているが、偶然そこに進入したらどうか。実にクリーピー(ぞわぞわ)である。

 「真夜中の遊園地」も「真夜中の玩具売り場」もシステム世界から見れば機能が欠落した「過少な場所」で、システムに適応した者から見れば「過剰な場所」だ。だから「空間の過剰と過少」は「時空の過剰と過少」に拡張できる。それらは「凝視=良く見ること」で現れてくる。そこが「社会への閉ざされ」から「世界への開かれ」に通じる扉になる。

 昭和的身体は「社会の外へ」「社会から世界へ」の扉に開かれていた。「真夜中の遊園地」や「真夜中の玩具売り場」を子ども番組で描いた大人たちは、「社会から世界へ」の扉ーー規定可能なものから規定不可能なものへと通じる扉ーーに向けて子どもたちを誘なった。それらを見て育った子どもたちが、「鏡」や「真夜中」に強く惹かれるようになったのだ。

 昭和の三面鏡は普段は閉じられた上に覆いがかけられていた。子どもたちは親がいない時に覆いを取り去って三面鏡を開き、角度を調節して無限回廊を覗き込んでは回廊のどこかに得体の知れぬ何かが映り込んでいないかと脅えた。だが今の子どもたちは屋上や空き地に、真夜中の遊園地や玩具売り場に関心を寄せない。扉に向けて開かれていない。

 クズ=「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシーン」=「社会に閉ざされた存在」の出発点は、そんな子ども時代の「閉ざされ」にあるというのが、僕の一貫した見方である。そこからすると「JホラーVer.1」と「Ver.2」に共通する「見過ごされた時空=凝視すべき時空」は単なる映像モチーフを超えた豊かなインプリケーションに満ちていることになる。

 若い読者は考えたことがあるだろうか。鏡は用事がある時しか使わない。だが鏡は使われていない時にもそこにあって「何か」を映している。遊園地も玩具売り場もそう。僕らが訪れていない夜にもそこにあって「何か」を宿している。「おもちゃのチャチャチャ」の歌のようにだ。因みに「何か」とは何なのかが、「JホラーVer.1」と「Ver.2」を分ける。

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