“映画館でかけるべき映画”を作り手たちは考えないといけないーー三宅唱が2010年代を振り返る

三宅唱が2010年代を振り返る

 映画の上映素材が35mmフィルムからデジタルへと移り変わり、カメラの性能も著しく向上した2010年代。映画、映像作品が大きく変容していく中、2012年の劇場公開第1作『Playback』以来、次世代を担う映画作家として注目を集め続けているのが三宅唱だ。

 2018年公開の映画『きみの鳥はうたえる』は数々の映画賞に輝き、2019年は、インスタレーション作品『ワールドツアー』や、山口情報芸術センター[YCAM]で、役者経験のないティーンエイジャーたち共にみずみずしい映画『ワイルドツアー』を撮りあげた。そして、2019年6月には、Netflixオリジナルドラマ『呪怨』(2020年配信予定)の監督を務めることが発表された。

 映画、映像のあり方が変化し続けている今、映像作家・三宅唱は何を思うのか。2010年代の振り返りから、2020年代の展望までじっくりと話を訊いた。(編集部)

全国の映画館に変化が起きた2010年代初頭

『きみの鳥はうたえる』(c)HAKODATE CINEMA IRIS

――まずは、三宅監督の2019年から振り返っていきましょうか。

三宅唱(以下、三宅):制作関係でいうと、1月にDos Monosのビデオを作り、2月に恵比寿映像祭でビデオインスタレーション『ワールドツアー』の展示があり、3月に映画『ワイルドツアー』の劇場公開が始まりました。それと並行して2月のベルリン国際映画祭から『きみの鳥はうたえる』の海外映画祭での上映がスタートし、7月まで計6つの海外映画祭に参加しました。夏に札幌でビデオインスタレーション『7月32日 July 32, Sapporo Park』の撮影があり、秋はNetflixのドラマシリーズ『呪怨(仮)』の撮影があり、12月に札幌で『7月32日 July 32, Sapporo Park』の展示がありました。制作以外のインプットとしては、年明けからクリント・イーストウッドの近作を集中的に見ていた時期と、春は仙台で行った映画講座のためにトニー・スコット監督作を集中的に見ていた時期があり、その後はホラー映画をずっと見ていました。

――6月にNetflixが『呪怨』のドラマシリーズの製作を発表。その監督が、なんと三宅監督だったと。あのニュースには、ちょっと驚きました。

三宅:僕もオファーをいただいた時は驚きました。今は仕上げ中です。

――話が前後しますが、2018年の9月に『きみの鳥はうたえる』が公開されて、その年の末には、さまざまな映画賞に輝くなど、高い評価を獲得しました。監督自身は、この映画のリアクションについて、どのように捉えているのでしょう?

三宅:『きみの鳥はうたえる』は「役者の映画」だと撮る前から考えていたので、「賞」という目に見える形で評価されたことはありがたかったですし、音楽に関しても賞をいただけたことはとても嬉しかったです。

『きみの鳥はうたえる』(c)HAKODATE CINEMA IRIS

――毎日映画コンクールで柄本佑さんが男優主演賞、Hi’Specさんが音楽賞に輝いたのをはじめ、数々の映画賞を受賞しました。

三宅:あと、せっかくの機会なので話しておきたいのですが、『きみの鳥はうたえる』に限らずとにかく映画館にお世話になった10年だったなと思います。別にこれは形式的な御礼の言葉ではなくて真面目な話でして、僕が何本か映画をつくり、全て劇場公開できたのは映画館のおかげです。というのも、ちょっとややこしい説明になるんですが、今年に入るまで僕はいわゆる映画会社と一緒に仕事をする機会がなく、一本目の『やくたたず』以降は映画製作会社以外からのオファーが続きました。つまり、オファー時点で公開までのルートが決まっていた経験がなくて、何本かは劇場公開を求められたわけでもない。僕らがどうしても映画館で勝負というか商売をしたくて、ほぼ毎回作った後に「さあどう公開する?」と作戦を立てて、友人や周囲の人たちと配給宣伝をやってきたのですが、そのたび毎に、いろんな映画館が一緒に動いてくれました。

――『きみの鳥はうたえる』は全国で上映されましたが、いわゆるメジャーの映画会社がバックに付いているわけではないんですよね。

三宅:函館シネマアイリスさんという、街場のミニシアターが製作母体です。そういう、ちょっとややこしい流れで映画を作ってきた自分がラッキーにも「映画監督」として生きているというのは、一緒に商売をしてくれた劇場あってこそだな、と。時代が違ったら僕はきっと、少なくとも映画監督ではない。僕の立場から見れば、「映画館が映画を作っている」という感じです。

――なるほど。

三宅:『きみの鳥はうたえる』と『ワイルドツアー』でまた全国の映画館を回ることができて……。もちろん、すべての映画館をパンパンにできたわけではまったくなく、迷惑を掛けた映画館もあったとは思うんですけど、この10年、自分は映画館に支えられてきたんだなと改めて思いました。もちろん、それぞれの映画館を支えている地元のお客さんは言わずもがなです。あと、めっちゃ儲かった他の映画があるのも大きい。

――そこが三宅監督のユニークなところですよね。全国の映画館であったり、映画関係者であったり、そういう草の根のネットワークみたいなものに支えられながら活動してきたと。

三宅:2010年代前半というのは、全国の映画館の映写システムがこれからDCPプロジェクターに切り変わっていくという時期であり、それと同時に、インディペンデント映画の劇場公開が増え始める時期だったと思います。僕の立場からみると、入江悠監督の『SR サイタマノラッパー』(2009)や真利子哲也監督の『イエローキッド』(2009)だったり、16mmフィルムでの興行を続けてきた空族が突破口を開いてくれた。それと、その動きに乗った全国のいろんな映画館の判断。

――三宅監督のデビュー作『やくたたず』も2010年だから、ちょうどその頃ですよね。

三宅:はい。そういう先輩たちの道の真後ろで、僕はちょっと気楽にやれたような感じがしますね。当時、入江さんや真利子さん、空族の富田さん相澤さんに連絡して、「映画ってどうやって公開すればいいんですか?」っていろいろ相談に乗ってもらったりしました。東京で言えば、池袋シネマ・ロサで自主映画の上映がすごく盛り上がり、『やくたたず』も最初はロサでの上映でした。それから2011年にオーディトリウム渋谷が新しくでき、同じビルの1階にあったカフェテオに行けば誰か同時代の映画の作り手にばったり会えたし、新宿の各映画館でもインディペンデント映画の上映がどんどん増えていった。そういうタイミングに、たまたま、自分も長編映画を発表できるようになった。

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