宮台真司の『呪怨:呪いの家』評:「場所の呪い」を描くJホラーVer.2、あるいは「人間主義の非人間性=脱人間主義の人間性」

宮台真司の『呪怨:呪いの家』評

【「忘れられた場所」を描くVer.2】

 鏡が映す「忘れられた者」におののく「Ver.1」と違い、「Ver.2」では鏡が何を映さなくてもそこに存在する事実におののく。だから『呪いの家』の鏡は「忘れられた者」を映さない。むしろ鏡にいつも「見られている」こと、知らない時も鏡が何かを「見ている」ことに、注意が払われる。つまり鏡が「脱人間中心主義」の象徴として用いられている。

 それが示すものはアニミズム的な体験だ。巷間の誤解と違い、アニミズムは万物に精霊が宿るのではない。それはキリスト教的な翻訳である。水木しげる『墓場鬼太郎』(1960年)が描くように、僕らはタライや壁に見られたりする。それがアニミズムだ。現象学的精神分析学者ビンズワンガーは、統合失調に特徴的なそんな体験を原初的な古層であると見做した。

 「僕らが見ていなくてもそこにあり続けて、何かを見ているモノたち」に開かれた感受性を、僕のゼミでは「存在論的な感受性」と呼んできた。90年代半ば以降の人類学者らの「存在論的転回」にもクァンタン・メイヤスーらの「思弁的実在論」にも、細かいロジックを抜きにしてそうした同時多発的感覚が滲み出している事実に注目しなければならない。

 その同時多発的感覚に基づく表現の一つが、「人」ではなく「場所」が主役だとする「JホラーVer.2」だ。奇しくも僕が都市計画や街づくりに関わる際にも「人」ならぬ「場所」が主役だと言い続けてきた(『まちづくりの哲学:都市計画が語らなかった「場所」と「世界」』2016年)。その僕の思考は1994年のベアード・キャリコット『地球の洞察』に拠る。

 京都学派の影響を受けたこの環境倫理学者は語る。環境が大切なのは生き物が大切だから(義務論)でも、人が快楽を感じるから(功利論)でもない。これらはショボい人間中心主義だ。「場所」自体が一つの生き物であって、それを蔑ろにすることで人は尊厳を失って狂う。それをパラフレーズすれば「人間主義の非人間性/脱人間主義の人間性」となる。

 さらにパラフレーズすると、産業化や技術化で感情が劣化した人間が「人間中心主義」に頽落することで、ないがしろにした「場所」から復讐される、となる。これぞまさに同時代の黒沢清『CURE』に始まる「JホラーVer.2」のコードそのもの。そこには、「人間が主役」と思った瞬間に「社会への閉ざされ」に埋没するのではないか、との惧れがある。

 惧れの背後には、いつの間にか自明ではないシステムへと自分たちが閉ざされたという汎システム化pan-systemizationの感覚がある。当初は「我々」がシステムを道具として使っていたのが、システム化によって生活世界が縮小して「我々」が消え、分断され孤立した個人がシステムの駒に堕する事態が、汎システム化である。主体が「我々」からシステムへと移るのだ。

 汎システム化が生活世界を破壊、人が孤立状態でシステム(市場と行政)に向き合うようになった結果、不安を背景とした「感情の劣化」が広汎に生じる。そこには、ホモ属が他の霊長類よりも孤独を嫌う社会的動物として進化したというゲノム的前提と、同じ時間でより多くの獲物と収穫物を得るために負担免除を追求するゲノム的前提との矛盾がある。

 負担免除(技術)によって人間がもっと多くの選択肢を得ることを良しとする「人間中心主義」が、負担免除の装置であるシステム(市場と行政)の見通し難い複雑化をもたらした結果、人間がシステムの入替可能な部品になり下がる「非人間性」を招き寄せたのだ。これが「人間中心主義の非人間性=技術による総駆り立て(後期ハイデガー)」という事態だ。

 単なる合理化だとされたシステム化(第1次郊外化まで)が、汎システム化段階へと進化した80年代以降になると(第2次郊外化以降)、人間が選択の主体であるがゆえの「人間主義の非人間性(閉ざされ)/脱人間主義の人間性(開かれ)」という気付きに到る。第1次郊外化は旧住民がマジョリティなのが、第2次では新住民がマジョリティ化した事実を想起しよう。

 同種の気付きが90年代に各国に拡がり、人類学や哲学から映画表現や文学表現まで含めた「存在論的転回」をもたらした。ただし、別の場所で詳述した通り戦間期後期の全体主義化を背景に生じた「一度目の存在論的転回=ハイデガーの総駆り立て論」があるので、汎システム化を背景とする90年代の「存在論的転回」を「二度目の存在論的転回」と呼ぶべきだ。

 汎システム化がもたらした「人間主義の非人間性」への広汎な気付きという文脈を踏まえない限り、ダン・スペルベルやブリュノ・ラトゥールら人類学者が駆動し始めた「二度目の存在論的転回」の理解が表層に留まり、今世紀ヴィヴェイロス・デ・カスクロの多視座主義・多自然主義やクァンタン・メイヤスーの思弁的実在論の理解に支障を来すことになる。

 『ア・ゴースト・ストーリー』がタイムラプスで描くように、僕がいるこの「場所」は昔からずっとあり、これからもずっとあり、「生き物の如く転態する(時間性)」。そうした「場所」が、タイムラプスで消えてしまいがちな僕を「じっと見ている(空間性)」。そんな「場所」へと「開かれる」ことで、僕は「社会」ならぬ「世界」の中で救済される。

 僕には幼少期からアニミズム的感受性があって、生物か無生物かを問わずモノに「見られる」という体験を重ねてきた。動物に「見られる」という感受性ゆえにどんな動物にも異様に好かれる。樹木や電信柱やビルに「見られる」という体験ゆえに時には街頭で突然うずくまった。当時は転校が多すぎたための「引っ越し分裂病」ではないかと診断された。

 90年代半ばまでの10年、ナンパした女たちとビルの屋上や非常階段で性交していた時も、避雷針や給水タンクに「見られる」体験を重ねてきた。実際「ほら、避雷針が僕らを見ているよ」という言葉を幾度となく囁いた。中には「いやっ」と頬を赤らめる僕と同じ資質を持つ女もいた。それを僕は『墓場鬼太郎』が描く幽霊族=先住民の感受性に重ねた。

 そんな僕に居場所を与えてくれた「JホラーVer.2」。Ver.1が「場所で忘れられた者」が主役とすれば、Ver.2では「場所そのもの」が主役。前者の呪いは鎮められるが、後者の呪いは「場所を忘れた自分が悪い」ので「場所に開かれた脱人間(モンスター)」にならないと鎮められない。当然、「場所」によって救われた僕は「天使で且つ悪魔」かもしれない。

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