小川紗良の『風の谷のナウシカ』評:すべての悲しみに、きっといい風が吹くように
ラステルとクシャナの悲しみが向かった先
この映画ではもうふたつ、悲しみに暮れた女の姿がある。ひとつはペジテの王女ラステル、そしてもうひとつはトルメキアの皇女クシャナだ。鎖を繋がれて死にゆくラステルと、鎧を身につけ銃を撃ち鳴らすクシャナ、ふたりは対照的なようで根本にある悲しみは似ているように思う。どちらも腐海の拡大と醜い戦争の最中で悲しみに暮れた者たちで、その悲しみの向かった先が死か武力かというだけだ。
ラステルは王女でありながら鎖で自由を奪われ、船の墜落で逃げることもできずに死んでいく。死際に彼女の胸元を見たナウシカは思わず顔をしかめ、手を震わせながらそっとボタンを留める。ナウシカがそこに何を見たのかは描かれない。墜落による救いようもない傷跡なのか、腐海の毒に侵された病か、はたまた彼女が日常的に受けてきた支配の痕跡か。いずれにせよ、ラステルが悲しみの果てに死んでいったことに変わりはない。一方クシャナは、強い命令口調で軍を束ね気高くたくましいが、度々弱さが垣間見える。例えばナウシカに「あなたは何を怯えているの? まるで迷子のキツネリスのように」と問われると、図星のように眉を震わせる。目の前に巨大な王蟲が現れれば、目を固く瞑り小さく縮こまる。蟲の犠牲となった自分の腕を見せつけ、「我が夫となるものはさらにおぞましきものを見るだろう」と風の谷の者たちを脅す。クシャナは蟲を恐れ、蟲を恨み、その悲しみの末で誰よりも重い鎧を被って、弱い自分を守っているのかもしれない。ラステルを死に至らしめたのも、クシャナを武装させたのも、自然破壊と戦争が生んだ悲しみだ。そんな彼女たちの姿を見つめるナウシカの眼差しもまた、途方もなく悲しい。
『風の谷のナウシカ』は、自然に対する人間の愚かさの映画だと思っていた。あるいは、自然と人間との豊かな共生を祈る映画だと思っていた。はたまた、あのパッケージに描かれた美しい少女が人々を救う映画だと思っていた。そのどれもが間違ってはいないが、完全な答えでもないのだと思う。しかし、2020年の東京に生きる私にとってみれば、これは紛れもなく女たちの悲しみの映画であった。スクリーンで観るとよくわかるが、この映画には若い男がほとんどいない。真っ先に腐海や戦争の犠牲となったのだろうか、めぼしい人物といえばペジテのアスベルくらいだ。風の谷ですら青年の姿は見当たらず、残されたのは子どもと年寄りばかりだ。その中で人柱となり崇められるナウシカやラステルやクシャナのような女たちの、叫びのような映画であった。スクリーンいっぱいに両手を広げ、真正面からこちらに向かってくるナウシカの悲痛な表情が、胸に焼き付いて離れない。
ナウシカは、本当に救世主なのだろうか
ナウシカは、本当に救世主なのだろうか。言い伝えの通り、彼女は青く染まった服を纏い金色の野に降り立ったが、あの姿は果たして希望だろうか。原作に、「青き人は救ってはくれないのだよ ただ道を指し示すだけさ」という言葉がある。その言葉の通り、ナウシカは人々の心を照らしたが、実際には今まで通りの風が谷に戻っただけである。腐海の広がりも、人間の愚かさも、なにひとつ解決したわけではない。それはこの映画を観た私たちの現実世界にも同じことである。どれだけナウシカの姿に心打たれても、映画館を出れば変わらぬ都会の風が侘しく吹いている。私の生きるこの世界で、待てども待てどもナウシカは来ない。なぜなら、ナウシカは私の中にいるからだ。この胸に焼き付いたナウシカの姿を希望にするか絶望にするかは、私自身に委ねられている。
風の谷では新たな命が生まれると、「いつもいい風がその子に吹きますように」と祈る。「いい子に」や「丈夫に」といったその子自身を縛る祈りではなく、周りに吹く風に対して祈りを捧げる、とても優しい風習だと思う。『風の谷のナウシカ』がスクリーンに灯る2020年の混沌に、そしてこの映画で祀られたすべての悲しみに、きっといい風が吹くように。優しい祈りを捧げながら、今日も私の中で青い少女が飛んでいる。
■小川紗良
1996年生まれ。女優、映画監督。甲斐博和監督作『イノセント15』、岩切一空監督作『聖なるもの』で主演を務め、各国の映画祭で女優として高い評価を得る。監督として3年連続で「ゆうばり国際ファンタスティック映画祭」に参加。『最期の星』は、第40回ぴあフィルムフィスティバル・コンペティション部門で入選。最新作『海辺の金魚』が今秋公開予定。
■公開情報
『風の谷のナウシカ』
公開中
原作・脚本・監督:宮崎駿
プロデューサー:高畑勲
音楽:久石譲
声の出演:島本須美、納谷悟朗、松田洋治、永井一郎、榊原良子、家弓家
正
制作:トップクラフト
(c)1984 Studio Ghibli・H