視聴者はなぜ『スカーレット』を“私のドラマ”と感じたのか? 作品全体を通して描いた「不可逆性」

『スカーレット』“私のドラマ”と感じたワケ

 戸田恵梨香主演の連続テレビ小説『スカーレット』が、3月28日に最終回を迎えた。かつては職業のセレクトや職業観など、ちょっと先を行く女性の生き方を提示するスタンスだったと言われる朝ドラ。それが徐々に現実よりも少しゆっくりした歩みになり、『ゲゲゲの女房』での改革以降はむしろ「昭和回帰」や、『ゲゲゲ~』『まんぷく』を筆頭とした「偉人たちの足跡を追う、日本礼賛」方向にシフトしていった感もあった。新しいモノが生まれにくく、閉塞感のある現代では、自然な流れだろう。

 ところが、『スカーレット』は、現代の女性たちの生き方や気持ちと完全に並走する、どうしようもなく現代的でシビアで、力強く、肝が据わった朝ドラとなった。まるで、閉塞感を打ち破ることができるのは、結局自分の心の持ちようだと諭されるような心境にすらなる。

 以前書いた「同業者夫婦」(参考:『スカーレット』で水橋文美江が描く同業夫婦の苦悩 “朝ドラ新時代”を感じさせるヒロインの在り方)とともに、『スカーレット』が作品全体を通して描いたテーマは、おそらく「不可逆性」なのではないだろうか。

 なかなか脱することのできない貧乏暮らしも、あっけなく終わった初恋も、息子の病気が進行する中、ラスト近くでようやく再登場した初恋相手が都合の良い奇跡や幸運を運んでくれるわけではなかったことも、世の無常を感じさせる。

『スカーレット』第105話(写真提供=NHK)

 一貫して甘くない現実が描かれていく中、不可逆性が特に色濃く表現されるようになったのは、喜美子(戸田恵梨香)が穴窯での窯炊きに憑りつかれ、夫・八郎(松下洸平)や友人の声にも耳を貸さなくなり、借金までして失敗を繰り返した後に、成功を手中にした中盤からだろう。

 最初は夫・八郎に倣って始めたはずの陶芸において、独創性や創作に対する尋常でない情熱を見せ始める喜美子。そして、その姿に嫉妬や劣等感を抱く夫との間に溝ができていく。理論的には夫婦間で「生計を立てる担当」「芸術に打ち込む担当」を分けず、どちらも分業・協働することもできるだろうが、それができないのは、喜美子の芸術家としての業だったのだろう。

 窯炊きに成功し、収入の心配がなくなってからは、別居を解消しても良いはずだった。しかし、そうはせず、離婚を選ぶことになったのは、夫の男性としての業だったろう。

 しかも、一時はギクシャクしていた二人が、息子とともに、後にたびたび食事を共にする関係になる。離婚したのも、憎み合ったり嫌いになったりしたわけではないのだから、元の関係に戻っても良さそうなものだが、そこでも決して元通りにはならない。

『スカーレット』第133話(写真提供=NHK)

 共に愛する息子・武志(伊藤健太郎)を見守りつつ、「おばちゃん」「おっちゃん」と言い合う、「サバサバした新しい関係」を築いていくところに、現代的な夫婦のあり方とともに「不可逆性」を感じずにはいられない。

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