『エイス・グレード』はSNS時代の『ライ麦畑でつかまえて』? 作品に宿る普遍的なメッセージとは
作品の送り手はピッチャーであり、受け手はバッターであるという比喩がある。社会に向けて作品を送り出す作家は球種を選び、コースを狙い澄ます。ストレートかカーブか。インハイで観客の胸元をつくのか、批評家の手の届かないアウトローに決めに行くのか。アメリカ映画界がメジャーリーグだとしたら、あらゆる映画監督がピッチャーとして観客の意表をつき、批評家のバットに空を切らせ、ストライクアウトを取るためにしのぎを削っている。
撮影当時28歳のボー・バーナムはこの『エイス・グレード 世界でいちばんクールな私へ』が初の監督作品になる。まったくのルーキー、新人投手がアメリカ映画という世界最大のメジャーリーグのマウンドに上がったわけだ。アメリカの観客は新人にやさしくはない。最大の映画批評サイト「ロッテントマト」は、つまらない作品に投げつける腐ったトマトという意味である。少しでも甘く入ればたちまち批評家のバットがうなりをあげ、観客からは腐ったトマトとブーイングが降りそそぐ。YouTube出身の新鋭は、果たしてどんなクールで尖った、SNSネイティブ世代のティーンネイジ映画を見せてくれるのか? そういうプレッシャーの中で彼が投じた監督人生の第1球がこの『エイス・グレード』だった。
結論から言うと、この映画はとてもストレートな映画だ。それも160kmのうなりをあげる豪速球ではない、とてもゆるやかでまっすぐなボールだ。主人公はどこにでもいる、YouTubeで一生懸命に人生の教訓を語りかけるけど、誰にもいいねをもらえない冴えない13歳の女の子。でも映画はその「冴えなさ」を強調して「こいつこんなに冴えないんですよ」とネタにするわけでもなく、ただ彼女に繊細に寄り添っていく。主人公は確かにSNSに傾倒しているが、この映画の目的は「SNSの承認欲求に狂っていく10代」を残酷に描き出し、批評することにはない。では何のために物語を語るのか? もちろん彼女、主人公ケイラのために語られるのだ。美少女でもなく、スポーツや勉強でもぬきんでることのない、それでも何か輝ける場所を探すケイラ。劣等感を抱きながらもクラスのろくでもない少年に簡単に恋してしまう彼女は、国連でフェミニズムを説くエマ・ワトソンの輝きからなんて遠く離れたところにいるのだろう。それでもこの映画は彼女を批評したり批判したり啓蒙したりするためではなく、彼女を勇気づけるために語られる。
僕がガキだったころ、いやその何世代も前から、学者や評論家は子供たちをネタに世代論を語ってきた。僕が覚えているだけでも生まれ年を数年単位で区切り、やれジェネレーションなんとか世代はどういう感性をもっていて、やれどこからどこまでが新しい人類でそのあとはポストなんとか世代でとかそういった類も、最終的にはペラペラとしゃべる大人の著書を売り込むためのたわごとだ。でもそういう若者論の中で、ケイラみたいな女の子はいつも見向きもされず存在しないことになっていた。これはそういう見捨てられた子どもたちのためのティーンネイジ映画、ずっと存在してきた見えざる子どもたちのためのジェネレーションムービーだ。