The Wisely Brothers 真舘晴子の『さよなら、退屈なレオニー』評:“人を思いたい”気持ちについて

真舘晴子の『さよなら、退屈なレオニー』評

 レオニーの本当のお父さんが、友達のお父さんに似ている。いつもは遠くに住んでいるから会えないけど、どこかしらで久しぶりに会えたとき、顔をみるとなぜかほっとして、自分がそのとき何を嫌に感じてどんな退屈な日々を送っているかということを伝えなくてもよくなってしまうような、そんな何かを持っているからだと思う。

 言葉にしたくないことを、言葉にして聞いてくる人々に、レオニーは苛立っているように見えた。お母さんが周りを気にして取り繕っている言葉。学校の先生が、クラス全員が同じことを当たり前のように考える言葉。義父からの愛情のような言葉。でも、そう思いながら自分でも、感情が高ぶったときに言葉にしたくない気持ちを言葉にしてしまう。

 『さよなら、退屈なレオニー』。この映画の日本版予告編のイメージソングとして、3年前に作った私たちの楽曲「メイプルカナダ」を使わせてほしいという話をいただいて、驚きと新しい不安を持ちながら作品を鑑賞させてもらった。

 そのときはじめて、フランス語圏であるカナダ・ケベック州の海辺の町をスクリーン越しに目の前にした。そこに映る心は、「メイプルカナダ」を作っていたときの自分のような気持ちだった。

 人を思いたい気持ちがあるのに、思えないときがあった。なんで思えないんだろうと自分も嫌になって、わざと作った自分で振る舞ってしまうこともあった。もう、人を思えなくても、好きな何かがあれば……とも思っていた。でも、周りの誰かが、人のことを本当に思っていることを心で感じたときに、私は、人を思いたいと強く思ったことがあった。今の自分なら、もしかしたら、誰かを思えるのかもしれないと。巧みな言葉でなく、測れる何かでなく、目に見えるものでなく、それを心で感じたときに。レオニーも、また、そんなように感じた。誰かがいないところで、その人のことを思う心を目の当たりにするからだ。いないことで、分かること。いないことから、自分なりにメッセージを受けとること。そして、自分がいなくなることで、何かを示すこと。

 いなくなることは、誰かがその人を思うことでもあった。この映画で何回か姿を消すレオニーを、私は思うし、きっと彼らも思うんだ。自分のペースでわからないことを、聞こえないことを、見えないことから、想像することの大きさについて考えた。

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