森直人の『ROMA/ローマ』評:キュアロンの壮大かつ正統な“自主映画”から考える映画の「現在」
いくらハイクオリティの傑作でも、劇場のスクリーンで上映されない作品を映画と呼んでいいのか否か?
ここ2~3年で一気にせり上がってきた、インターネット配信限定作を「映画」として扱うべきかどうか問題――。この議論の本気度を無視できないステージにまで高めた感があるのが、Netflixオリジナル作品であるアルフォンソ・キュアロン監督の『ROMA/ローマ』である。結局のところ本作はアメリカや韓国など30ヶ国余りに続き、日本でもめでたく劇場公開の運びになった。この件自体は非常に喜ばしく、2019年度上半期の映画界を代表するトピックのひとつに挙げられるだろう。
すでに作品としての評価はハンパない。ワールド・プレミア上映が行われた昨年(2018年)のヴェネチア国際映画祭では金獅子賞を受賞。今年2月の米アカデミー賞では配信スタート前からの限定劇場公開を受けて、最多10部門ノミネートされたうち、監督賞、撮影賞、外国語映画賞の3部門を獲得。最も花形の作品賞は『グリーンブック』(監督:ピーター・ファレリー)がもぎ取ったが、もし流通面での引っ掛かりがなかったら『ROMA/ローマ』の受賞は堅かったのではと思えるほど。カンヌではハナから影も形もないわけだが、この場所は2017年のコンペに『オクジャ/okja』(監督:ポン・ジュノ)と『マイヤーウィッツ家の人々(改訂版)』(監督:ノア・バームバック)が入って物議を醸して以来、Netflixと戦争状態にある敵陣だから仕方がない。ざっくりまとめると、程度の違いはともかく、大方の映画プロパーにとって『ROMA/ローマ』の支持に躊躇する点があるとすれば、要はネトフリの配信動画ってことだけなんだよね、というわけだ。
ところで、なぜ「映画」として扱われないとダメなのか。そんなのどうでもいいじゃん!という意見や疑問も当然出てくるだろう。
そこには様々な事情が介在している。ひとつには各映画祭の混乱を見てもわかるように「評価」の枠組みが対応していないことだ。例えば(筆者も参加している)「キネマ旬報ベスト・テン」は、日本映画も外国映画も劇場公開された作品だけが選出の対象となる。2018年度、『ROMA/ローマ』は12月14日から全世界同時オンラインストリーミングが始まっていたが、当然選出にはカウントされなかった。しかし今年の3月9日から劇場公開されたことで、2019年度にはおそらく年間最上位を争う作品として同ベスト・テン枠に迎えられることになる。
もし、ではなく確実に、今後は「映画」の形をした配信動画作がどんどん増えていくはずだ。カンヌならずとも、さあどうするか? これはオリコンチャートがCDの売り上げのみを数えることでリアルな市場状況と乖離した問題と似ているかもしれない。つまりは映画史の記述という問題。流通の多様化/液状化により、20世紀型の状況把握や歴史認識のスタイルが岐路に立たされているのである。
逆に言うと、『ROMA/ローマ』の劇場公開はギザギザの論争を一旦鎮め、事を丸く収めようとした感もあるのだが(笑)、いやしかし、これは映画ファンの欲望が生んだ祭りだとまずは素直に言いたい。というのも、『ROMA/ローマ』は極めて王道のシネマティックな愉楽に満ちた作品であり、自宅のテレビやパソコンサイズの視聴環境では確実に不全感が残る。ディープに映画に親しんでいる者なら、絶対でっかいスクリーンと高スペックの音響でバスタブに浸るように味わいたい! と思わせるように出来ているからだ。