森直人の『ROMA/ローマ』評:キュアロンの壮大かつ正統な“自主映画”から考える映画の「現在」

森直人の『ROMA/ローマ』評:キュアロンの壮大かつ正統な“自主映画”から考える映画の「現在」

 また少年時代の回想を、当時の社会背景込みでフィクショナルに昇華する創作方法は、映画作家の大ネタの定番。『フェリーニのアマルコルド』(1974年)――『フェリーニのローマ』(1972年)よりこっちが適当だろう――辺りに倣えば、『キュアロンのROMA/ローマ』とでも呼べそうな本作は、映画史の太い幹にダイレクトに連なりやすいという意味で、先鋭性の度数より優等生的な堅牢さがやや上回る印象を筆者は持つ。あるいは先鋭性と古典性のバランスが抜群で、「オール5」以外の成績をつけようがない、といったところか。

 思えば今年のアカデミー賞における『ROMA/ローマ』の評価を占う際に「保守的なアカデミー会員にこの作品は受け入れ難いのでは?」といった論調のコメントがよく見られたが(Netflix絡みの件で言うとまさにその通りなのだが)、ただし作品の質的には、むしろ大御所や老年の識者が認めやすいオーセンティックな「名作」の表情を備えている。適度に高踏的なポジションで受容しやすい内実だからこそ、外国映画枠でありながら、作品賞部門でもオスカーに大手を掛けるところまで登り詰めたのではなかろうか。

 しかも本作が心憎いのは、極私的なノスタルジアを基調としながら、主題面などでしっかり現代性が担保されていることである。メキシコ先住民の家政婦を中心に、男たちに抑圧された女たちと子供たちが団結に至る物語。浮気に忙しい一家の医者の父親も、ヒロインを孕ませて逃げた武闘派デカチン青年のフェルミンも、大人の男は性欲優先の身勝手なクズ扱いで、人種や階層の問題も内包しながら何より無意識の性差別が糾弾されている。これって要は「反トランプ」のかたまりだ。アカデミー賞授賞式の際、フェルミン役のホルヘ・アントニオ・ゲレーロの入国ビザがなかなか降りず、出席が危ぶまれる騒ぎもあったが(結局Netflixやキュアロンがメキシコの米国大使館と丁寧に交渉して無事出席できた)、弱者の声を巧妙に搾取するバックラッシュに抗する政治性を装填していたからこそ、「反トランプ」という点では一致団結しているアカデミー賞のような場所でもずいぶん闘いやすくなったはずだ。

 もう少し『ROMA/ローマ』の表現面に踏み込んで整理するために、他の作家や系譜への補助線を引いてみたい。ざっと世に出ているレビューを眺めたところ、本作をイタリアのネオレアリズモの延長で捉える向きが結構多いようなのだが、しかし初期デ・シーカ的なドキュメンタルな写実性とはだいぶ似て非なるものではないか。キュアロンはもっと「形式主義」的で、題材に相応しいスタイルを厳密に規定するタイプ。先程フェリーニを引き合いに出したが、他に筆者は小津、キューブリック、アンゲロプロス、タルコフスキー、ブニュエルといった名前を異なる角度から連想し続けていた。また本稿の依頼をくれたリアルサウンド映画部編集のS青年はアピチャッポンを連想したらしい。確かに先程記したように、現実音のみで構成されたミニマムな音響設計と、オーガニックな映像空間の融合はアンビエントな陶酔性をもたらす。本編ではカリブ海沿岸のビーチで、さざ波がやがて大きくなる推移をドラマのクライマックスに当てているように、自然や事物のざわめきと呼応するスローシネマの一形態といった趣も強い。

 ちなみに筆者はラップトップで原稿を執筆中に、疲れたらNetflixのページを開き、ヘッドフォンでの『ROMA/ローマ』の部分的な視聴をボ~ッと何度も繰り返している。実はたまに目をつぶっている(笑)。オンラインで本作を味わうなら、モニターよりリスニングに集中して身を委ねるのが最も気持ちいいと思う(なお劇中のラジオや街中からはスペイン語や英語のポップスが色々聞こえてくるのだが、それらの歌曲を集めたアルバムが『ROMA/ローマ』のオリジナル・サウンドトラックとして発売されている。こちらもまた素晴らしい!)。

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