ディーン・フジオカとは一体何者なのか? 『海を駆ける』が映し出す、不条理で魅惑的な世界

『海を駆ける』が映し出す、魅惑的な世界

 画面いっぱいに広がった凪いだ海から、ひとりの男が現れるーー『海を駆ける』は、そんなふうにして幕を開ける。

 前作『淵に立つ』で、カンヌ国際映画祭「ある視点」部門の審査員賞を受賞し、今や世界が新作を待ち望む存在である深田晃司監督は、今作では国際的に活躍する俳優ディーン・フジオカを主役に配し、インドネシアでのオールロケショーンを敢行。私たちの過ごす高度に発展した世界とは違う、多様で豊かな世界を温かく映し出している。

 本作の舞台はインドネシア・アチェ。雄大な自然と、2004年に発生したスマトラ島沖地震による爪痕が、いまだ見受けられる土地である。この物語では日本人、インドネシア人、日本人とインドネシア人のハーフといった若者たちが登場し、ちょっとした国際交流を展開。そこへ、海からやってきた謎の男(ディーン・フジオカ)が加わる。

 海から打ち上げられたというこの男は、名前も国籍も不明。しかし恐らく日本人なのだろうということで、日本人の貴子(鶴田真由)に世話役としての白羽の矢が立ったのだ。とはいえ、得体の知れぬこの男、あまりに怪しい。とうぜん、貴子も不安の色を浮かべるのだが、気づけば彼に“ラウ(=海の意)”という安直な呼び名を与え、意外にもあっさりと自宅に迎え入れる。ラウもラウで、彼女らの中に自然と溶け込み、その夜にはすでに、もう長いこと一緒に過ごしてきたかのような穏やかな光景を共に生み出している。あまりのその自然さに、観ているこちらもつい受け入れてしまうが、やはり、ラウが“異物”であることに変わりはない。

 深田監督といえば、ある世界(=関係性)において“異物”とも思える存在を配置することで、それがもたらす変容する関係性(=世界)を絶えず描いてきた。それが顕著であった『淵に立つ』での、ある男の闖入による、ごく平凡な家族の変貌ぶりも記憶に新しいだろう。遡ってみれば、人間世界でアンドロイドが共存する『さようなら』(2015)、モラトリアム期の少女が夏のひとときを海辺の田舎町で過ごす『ほとりの朔子』(2013)、そして『歓待』(2010)では、『淵に立つ』や本作と同様に、なにか得体の知れない存在として男が登場する。いずれの作品にも、“異物”と呼べる存在が配置されているのだ。

 しかし本来そこにあるべきではないもの、あるいは、ないはずのものを、“異物”だと簡単に言い切ってしまうことははばかられる。環境によって、それらの扱われ方はさまざまだ。たとえば旅人はどこへ行ってもよそ者であることに変わりないが、観光地など旅先によっては歓待されることを、誰もが知っている。そして、何者かの存在によって変容する関係性とは、私たちの世界にも往々にして見受けられるもののはずだ。その“何者か”とは、私や、あなたであることもあるだろう。私たちの世界にも溢れる「寛容さ」と「不寛容さ」のせめぎ合いの中で、突き詰めてみれば、これが人間関係のとうぜんの姿だとも言えるのではないだろうか。

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