宮台真司の『万引き家族』評:「法の奴隷」「言葉の自動機械」となった人間達が社会を滅ぼすことへの激しい怒り

宮台真司の『万引き家族』評:「法の奴隷」「言葉の自動機械」となった人間達が社会を滅ぼすことへの激しい怒り

勧善懲悪の否定──初期ウルトラシリーズの香り

 ところで、是枝作品の多くは、私が小学生時代に見た、円谷プロとTBS(東京放送)が共同制作していた1960年代後半の初期ウルトラシリーズ──『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』『怪奇大作戦』──を彷彿させます。だから彼の作品を見るたびに、エンドロール後にTBSの旧ロゴを幻視してしまうほどです。例えば『空気人形』(2010)。

 そこには、「怪獣にも心がある」ならぬ、「ダッチワイフにも心がある」が描かれています。「法内=システム」に乗れない存在(ダッチワイフ)の視座を経由して社会を反省させる、という形式も完全に同じです。私がDVDボックス(下巻)に長い解説を寄せた『怪奇大作戦』を思い出します。そこで犯罪に走るのは、戦後社会に乗れない戦前戦中世代でした。

 彼の映画には「悪は悪、善は善」というトートロジー(同語反復)がありません。悪には理由がある、生まれた時から悪い奴などいない、とします。これは、一つの社会観であると同時に、一つの表現技術上の手段でもあります。悪の理由を描くことで、様々な問題とそれを扱う多様な価値観を提示できるからです。そこを詳しく見てみます。

 是枝作品は[善/悪]に代えて[本物/偽物]のコードを持ち込みます。具体的に言えば、「法外」へと疎外された存在──怪獣であれ人形であれ人であれ──の視座を経由することで、「法内」が一つの虚構すなわち「偽物」であることが暴露されるのです。その場合、それが「偽物」だと気づく存在──『怪奇大作戦』の岸田森──こそが「本物」になります。

 『ウルトラマン』で言えば、ガバドンにせよ、ジャミラにせよ、スカイドンにせよ、元々は少しも悪くありません。単に彼らの存在を許容できない人間たちがいるだけです。その人間たちが、悔しいことに、自分たちを善だと見做す「偽物」なのです。なぜ私たちが「偽物」なのかを描くことで、数多の問題と価値を弁えた「本物」が指し示されるのです。

 こうした図式が映画『万引き家族』をも貫徹します。例えば、「私は法を守っています」と浅ましく弁解する安倍首相は「法内」にいる「偽物」を象徴します。「法内」に救いがない者たちを緩やかに包摂できる「法外」の万引き家族たちこそ「本物」であり、それを理解する観客たちが「本物」です。ちなみに社会学者ウェーバーが百年前に似た図式を使っています。

 ウェーバーは、見ず知らず者から成る国民を守るべくイザという時に法を破る覚悟──失敗して市民に血祭りに挙げられる覚悟を含め──が「政治倫理」であり、その「政治倫理」に従う政治家こそが「本物」だとします。脱法の奨励ではなく、「正しさのために法外に出る」政治家を賞揚し、「法内でコソコソ正しくないことをする」政治家を軽蔑するものです。

都市的エロス──疎外された者をエロスが訪れる

 とはいえ、是枝作品は「法内=システム」を頭から否定しません。再び『空気人形』の冒頭。夜のモノレールの車窓から眺めた走行中の車列からカメラをパン(横移動)して主人公を捉えるシーンを思い出しましょう。そこには「都市的エロス」が活写されています。私は『ウルトラセブン』の「アンドロイド零指令」などを思い出さない訳にはいきません。

 詳しく言えば、「法内」──都市や郊外──から疎外された者の眼差しにこそ、その都市や郊外が「ありそうもない不思議な何か」として立ち現れ、それが「都市的エロス」を醸し出します。そこにシンクロできない存在を疎外する、それ自体が奇跡であることによって魅惑的な「法内=システム」の、両義性。それを描き出すのが是枝作品のもう一つの魅力です。

 『万引き家族』ならば「祖母」の病死直前の海水浴場です。波と戯れる幸せそうな万引き家族たちを笑みを浮かべながら眺める「祖母」の表情には「死亡フラグ」が立っている──樹木希林の演技は奇蹟です。「ありそうもない不思議な何か」からエロスを享受した彼女は、「あんた、よく見ると美人だね」と「母親」に語り、ほどなく亡くなります。

 万引き現場のスーパーマーケットを挙げてもよい。ジャン・ボードリヤールならばキャノピー(伽藍の天蓋)と形容するだろう陳列棚に置かれた商品の数々は、「父親」が「売られる前には誰のものでもない」と語るように、「ありそうもない不思議な何か」として立ち現れています……そう、これもエロスなのです(後で説明します)。

 思えば、幼少の私は、発達が遅くて体が小さく、右掌に大火傷を負い、小児喘息で、周囲の冗談が理解できず、転校だらけで六つの小学校に通ったのもあって「周辺的存在」でした。そんな私が幼稚園の頃に作ったスクラップブックがあります。母が購読していた婦人雑誌(『ミセス』など)からネオン輝く都会やショーウィンドウの写真を集めたものでした。

 「法外」へと疎外された私から見ると、写真の中で見る夜の都会やマネキン人形が、何というか、全体として一つの生き物だと感じられたのでした。それを今でもまざまざと思い出すことができます。だからでしょうか、小学校にあがるとアンデルセン童話と宮沢賢治に深く耽溺することになったのでした。

 錫(すず)の兵隊やマッチ売りの少女が、人々が幸せそうに行き交う街や窓から見える団欒を、自分がそこに包摂されていることを想像しながら眺めて、いっときの享楽に耽ります。その感覚が、まるで自分のもののように感じられて、私もひとときウットリと至福の時間を過ごしたものでした。

 アンデルセンの後に宮沢賢治に触れましたが、例えば遺作である『銀河鉄道の夜』を読むと、自然への礼賛もさることながら、鉄道の窓灯・信号機の灯・ショーウィンドウの品々・からす瓜の燈籠などへの、主人公の憧憬が描かれていて、私はアンデルセンと同じものを感じて深く癒されたのでした。

 だから、小学三年生のときに『ウルトラセブン』の「アンドロイド零指令」を見た時も、同じ感覚を抱いたのです。是枝作品には、『空気人形』からも『万引き家族』からも、同じ体験を享受することができます。何の変哲もない都市や郊外を、錫の兵隊やマッチ売りの少女やジョバンニのように眺める眼差しを、受け取ることができるのです。

 私たちをontologyとrealismから遠ざける、究極の間接化を行うシステムでさえも、そこから疎外された周辺的存在の視座からすると、ありそうもない奇蹟的な過剰、あるいは過剰な贈与として見えてくるということ。その意味で、「真のエロス」は周辺的存在の視座にしか立ち現れない──それが是枝監督の確信なのだろうと私は見ています。

 その構えに心から共振できる私は、昔から「都市や郊外は──システム──は法を通じて人間を疎外する、以上」という類の単純な言葉に、大きな違和感を感じてきたのでした。だからこそ、私は都市のフィールドワーカーになって女子高生の援助交際を「発見」したのだと思います。今から振り返ると、全てがひとつながりになって感じられます。

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