アメリカ社会の現状を描き出すーー『フロリダ・プロジェクト』が重要な作品になった理由

小野寺系の『フロリダ・プロジェクト』評

 中華料理の配達人や、路上で偽ブランド品を販売する不法移民、トランスジェンダーの娼婦など、アメリカ社会の片隅で顧みられずに生きている人々の姿を、彼らの視点に立ってドキュメンタリー風に描いてきたショーン・ベイカー監督。フロリダの安モーテルで暮らす母子の日常を切り取った監督作『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』は、従来の下層社会のリアルな描写に加え、映像の美しさや質の高い演技によって飛躍的に完成度が高まっている。

 本作がアメリカで公開されたのは2017年。様々な映画賞を受賞し、批評家の評価も極めて高いが、第90回アカデミー賞では、ウィレム・デフォーが助演男優賞にノミネートされただけだ。そのことが不可解に思えるほど、本作は複数の方向に突き抜けた傑作である。ここでは、本作が現在のアメリカ映画を代表するほどの重要な作品となった理由を、多角的な視点から考えていきたい。

貧困者はなぜモーテルに住むのか

 フロリダ州にある「ウォルト・ディズニー・ワールド」は、6万人以上の従業員が働く、世界最大のテーマパークだ。その近くを走る国道は、ポップな紫色に塗られた街灯や標識が立ち、アウトレットのギフトショップがまばらに並んでいる。そこに、やはり紫のパステルカラーのペンキで壁が塗られた、実在のモーテル「マジック・キャッスル(魔法の城)」がある。ディズニー・ワールドが近くにあるため、観光客を意識したファンタジックなデザインが施されているが、劇中で描かれるように、新婚旅行でやって来た女性がフロントで「ここは嫌…!」と、思わず泣き崩れてしまうような、もの悲しさと生活感が漂っている宿泊施設だ。

 本作の主人公、シングルマザーのヘイリーと、6歳の娘ムーニーは、まとまった期間、この安モーテルの一室に住み込んで生活している。宿泊費が安いとはいえ一般的なアパートの家賃と比べたら高額である。本作では、この2人のように老朽化した安モーテルで長期間生活する人々が映し出されているが、彼らは役を演じてるのでなく、本当にそこで暮らす人々だったりするのだという。なぜ彼らはそんな割に合わない生活をしているのだろうか。

 日本で暮らす人の多くも実感している通り、部屋を借りるまでには高いハードルがある。安定収入も貯えも、実家などの後ろ盾もない生活困窮者にとって、入居審査や保証金を納めることは難しい。そうなると、とりあえず短期間の宿泊料を払って、その日その日をやり過ごそうとすることになる。長期的に暮らしやすい生活を選択する余裕すらない人々が、より多く出費させられてしまう。これでは苦境を抜け出すことが難しいばかりか、次第にその生活すら維持できなくなってくる。アメリカでは返済能力のない低所得者向けの住宅ローンが焦げつきを起こし、経済危機の原因となった「サブプライム住宅ローン問題」が起こったことで、住居を失った人がモーテルで暮らすケースが急増したというが、日本でも「ネットカフェ難民」と呼ばれる、定住するための場所を持たない、実質的にホームレスの状態にある人々が増えて社会問題となっている。本作を観ると、日本とアメリカで同じようなことが起きていることが分かるのだ。

 本作の題名となっている「フロリダ・プロジェクト」とは、60年代より始まった、ウォルト・ディズニーによるフロリダでのテーマパーク開発計画を指すことばだ。また一方で「プロジェクト」とは、低所得者のための公営住宅をも意味する。本作が描くのは、アメリカの裕福さや幸せの象徴となる“魔法の王国”の周囲が、多くの貧困者たちが住む、一種の「プロジェクト」と化してしまったという皮肉な現状なのである。

ヘイリーは“母親失格”?

 そのような未来の展望が見えない生活を余儀なくされている6歳のムーニーは、同じようにモーテルに暮らす子どもたちとともに、猛スピードで車が行き交う国道沿いを走り回っては危険な遊びをしたり、大人を巻き込んだイタズラを繰り返している。モーテル全体を停電にしたり、停まっている乗用車にツバを吐きかけ悪態をつくなど、タフガールとして振る舞うムーニーの悪ふざけは、ときに度を越して大人たちに大迷惑をかけるが、それが観客にとって決定的な嫌悪感を与えられるまでに至らないのは、イタズラそのものがユニークで確かに「面白い」と思わせてくれるからだろう。この散りばめられたユーモアは、ショーン・ベイカー監督の持ち味だ。子役のブルックリン・キンバリー・プリンスによる圧倒的な演技力と、子どもの背丈に近い位置にカメラを合わせる演出によって、観客は次第にムーニーの世界に引き込まれていく。

 ショーン・ベイカー監督がインスタグラムで発見したという、パンキッシュな雰囲気を持つ服飾デザイナー、ブリア・ヴィネイトが演技初挑戦とは思えない見事さで演じているのが、ムーニーの若い母親ヘイリーだ。リゾートホテルの観光客相手に、偽ブランドの香水を売りつけたりして日銭を稼いでいる彼女は、滞っているモーテルの宿泊費用を捻出するため、ついに売春行為に及んでしまう。インターネット上に自身の水着姿の写真をアップし、何人もの客を部屋に呼び込む。その過程は観客にハッキリとは示されないが、劇中でその事実が発覚したときに、ムーニーがバスルームに閉じ込められ、ステレオで大音量の音楽を聴かせられていたシーンの意味や、水着撮影遊びシーンの意味を、観客は気づかされることになる。ショーン・ベイカー監督は、このような計算された仕掛けを用意することによって、単調になりがちなドキュメンタリー風の演出に緊張感や起伏を与えている。

 ときに盗みもはたらく母親ヘイリーの行為は、たしかに客観的事実だけを追っていけば、ムーニーに対する虐待といえるものばかりだ。だがヘイリーもまた、10代半ばでムーニーを産んで、まだ20歳そこそこの年齢であることを考えれば、親としての精神的成熟を果たしていないのにも無理からぬ部分がある。何より観客は、それらの行為はムーニーとの生活を守るためであることを知っているし、ムーニーと母親が楽しい時間をたくさん過ごしたことも知っている。行政はそんなヘイリーに“母親失格”の烙印を押しつけ、ムーニーを奪おうとする。しかし、いままでこの母子に必要な支援を与えず、売春や犯罪へと追い込んだのも、行政の落ち度だということも確かだ。

 ヘイリーの友人のように、ダイナーでウェイトレスをしていれば良かったのではないかという声もあるだろう。だが、友人がフルタイムで働いてもモーテル生活から抜け出せていない現実が示している通り、合法的な方法で懸命に働いている人間ですら最低限の生活水準に満たないのである。食料を配給する福祉事業も、生きるためには不安定で不十分な支援と言わざるを得ない。ウィレム・デフォーが演じるモーテルの管理人のように、そこで暮らす貧困家庭や子どもたちに同情し、必要以上に気にかけてくれるような“善意”がなければ、すぐにでも破綻してしまうような脆弱な生活なのだ。「懸命に、真っ当に働けば生きていける」という、多くの人が信じていた前提が崩れている社会で、なぜヘイリーだけが責任を追及されてしまうのか。こんな理不尽な社会そのものが“社会失格”なのではないか。

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