馬に乗った兵士の“英雄の物語”はなぜ映画化された? 『ホース・ソルジャー』に見るアメリカ文化

『ホース・ソルジャー』に見るアメリカ文化

 アメリカ同時多発テロ事件(「9.11」)によって、ニューヨーク、マンハッタンを象徴するワールドトレードセンターのツインタワーが旅客機の激突に遭い倒壊し、多くの死者を出した光景は、世界中に中継され衝撃を与えた。その跡地である「グラウンド・ゼロ」には、岩の上で馬に乗っている兵士の勇壮なブロンズ像が、テロ事件から10年を経過した2011年より設置されている。

 馬に乗った兵士は、なぜこの悲劇の地で称えられる存在となったのか。そして「9.11」以後、なにかと問題が指摘されてきたアメリカの中東での戦闘行為のなかで、なぜこの実話が「英雄の物語」として映画化されるまでに至ったのか。『ブラックホーク・ダウン』のジェリー・ブラッカイマーが製作を務めた、本作『ホース・ソルジャー』の内容と背景、そしてアメリカ文化について解説しながら、その理由を考えていきたい。

 このブロンズ像は、「グリーンベレー」と呼ばれるアメリカの「陸軍特殊部隊」のなかで、「9.11」直後にアフガニスタンに赴き、危険な任務に従事した兵を模している。彼らの働きは当時、軍による機密扱いだったことにより、2009年にノンフィクションの書籍が発表されるまで公(おおやけ)には知られていなかったという。

 その任務とは、テロ事件首謀者とみられるウサマ・ビン・ラディンと過激な武装組織「アルカイダ」をかくまう、アフガニスタンのタリバン政権を無力化する手段として、ドスタム将軍率いるアフガニスタン北部勢力がタリバンの重要拠点である都市「マザーリシャリーフ」を制圧するのを、アメリカ軍の軍事力をもって助けるというものだった。

 マザーリシャリーフまでには、いくつものタリバンの拠点や要害を攻略しなければならない。具体的にどうやって制圧していくのか。特殊部隊がドスタム将軍やその兵たちと馬に乗って行動を共にし、通信によってアメリカ攻撃機による爆撃を正確に指示しながら、敵勢力を破壊しつつ進んでいくのだ。こう書くと、ずいぶん有利な戦いのように思えるが、本作の戦闘描写を見ると必ずしもそうでないことが分かる。高度から投下される爆弾が、敵勢力に直撃しない場合も多いのだ。そうなると、数に勝る敵の反撃に遭うリスクが高まり、下手をすると地上部隊は一気に全滅である。

 彼ら12人の物語が注目を集め映画化までされたのは、その任務の危険さと重大さはもちろんだが、「ホース・ソルジャー」という呼び名のとおり、西部劇の騎兵隊さながら馬にまたがり銃を構え、戦地である荒野を進んだという事実こそが大きいだろう。騎兵隊といえば、西部開拓時代には先住民と戦い虐殺を行ったという苦い事実もあるが、開拓・建国の過程で大きな役割を果たし、アメリカ白人の“男らしさ”を示す象徴とされてきた。勇気ある精鋭が馬に乗って、アフガニスタンの荒野を駆け巡るというイメージは、日本における鎧武者や侍のように、アメリカの保守的な美意識にうったえかけるものがあるのだ。

 『マイティ・ソー』に主演し、ヒーローのイメージが強いクリス・ヘムズワースが、そんな特殊作戦の隊長・ネルソン大尉を演じているように、作り手が意図するのは、内省的な戦争の実情というよりは、直球の「英雄物語」である。隊長と言いながらも、ネルソン大尉は、この作戦に参加する以前には戦闘に加わり敵を殺害した経験がなく、イラン出身の俳優ナヴィド・ネガーバンが演じるドスタム将軍に、一目でそれを見透かされる。戦場では敵を殺したり、名誉の負傷を負ったり、大事なものを奪われることが、戦士となる一つの通過儀礼として機能するというのである。ネルソン大尉は戦いの中で敵兵を殺害し、自分の命を顧みず戦場を駆け抜けることで、本物の英雄となっていく。その価値観は、南北戦争の若い兵士の勇気を描いた『勇者の赤いバッヂ』(1950年)を想起させるような、いや、それ以上に時代錯誤的な無邪気さと古めかしさがある。アメリカの戦争映画で、いまここまでストレートに英雄を描くというのは珍しいといえるだろう。

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