>  > 菊地成孔の『ゆれる人魚』評

菊地成孔の映画関税撤廃 第2回

菊地成孔の『ゆれる人魚』評:懐かしの<カルト映画>リヴァイヴァルとしての『ゆれる人魚』

関連タグ
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

 「菊地成孔の欧米休憩タイム~アルヴェヴェットを使わない映画批評~」に次ぐ菊地成孔の映画批評連載は、タイトルにある通りこれまでと一転、あらゆる言語を使ったあらゆる国家の、ハリウッド級からギリ自主映画まで、それが映画であればシネコンから百人未満の上映会まで、百鬼夜行の獣道を徒手空拳、「結局、普通の映画評フォームなんじゃないの?」という当然の声も耳に指を突っ込んで突き進む驚異の新連載!

覚えてますか? あなたはこの言葉を

 それとも今でも、メディアによってはぜんぜん死んではいないのだろうか?「カルト映画」。

 『スコピオ・ライジング』(63)から『ロッキー・ホラー・ショー』(75)から『不思議惑星キン・ザ・ザ』(86)まで、『HOUSE ハウス』(77)から『金田一耕助の冒険』(79)から『大日本人』まで(07)。と、どこから始まってどこまでで終わるのかさえ危なっかしい(ので、思いっきり適当に書いた)このジャンル。

 「今じゃ、下手くそな映画は単にカス映画であって、カルトなんて甘い査定ねえよ」「興収から賞レースの情報過多、インターネット上のあらゆる評価サイトの林立等によって、マーケットにカルトなんて曖昧な位置自体が消えてしまったのさ」「ここまでカルト教団(「カルト」映画は、「宗教カルト」という語からの転用)が暴れる時代に、もう言葉自体使えないでしょ」こう言った正論は全て正論である。現実問題として、1980年代までに隆盛を迎え、9/11同時多発テロぐらいまでは辛くも命脈を保っていた「カルト映画」、しかし、上記の正論のように、それは作品が消えたのではなく、置かれる場所と存在意義自体がなくなったのである。

 立ち位置も存在意義もないのに存在する存在、それは幽霊に他ならない。ネイティヴ・アメリカンを「未開の蛮族」の悪役としてバンバン殺しまくって良かった「西部劇」というジャンルが手を替え品を替え、継がれている、その遺伝子の強さに比べ、もともと生命力自体が脆弱な感のあった「カルト映画」は、幽霊化するしかなさそうだ。

そして、ここに、幽霊ではなく「人魚」として蘇る

 20世紀末あたりから我々は、西欧や南欧は言うまでもなく、実は東欧や東洋に独特の優れたデザイン感覚、おしゃれ感(これも死語っぽいけれども)、可愛い感が存在する事を知っている。『プラハ!』(01)等に描かれる「ある時代(ソヴィエト連邦による政治的圧力の始まり)までの東欧ポップセンス」、スコリモフスキーの『早春』(70)(デジタルリマスター版公開&リリースおめでとうございます)に代表される「欧州内合作映画の中にある東欧の<暗さと背中合わせのモダニズム>のエッセンス」を我々は知らないでもない。

 それは、グランギニョルや剣闘士の殺人ショーといった、肉食系の残酷さがひとつの文化として定着してしまい、「ポップ」「可愛さ」などとワンプレートに併せ盛りできなくなってしまった伊仏の、あるいは、「深い森の童話の世界」が、独立した感覚的なジャンルとして固定し、門戸を閉ざしてしまったゲルマン系の文化(この硬直を逆手に取り、見事な「新・物語」としてWニュー・ジャーマンシネマの傑作となったのが『ありがとう、トニ・エルドマン』(16)であるのは言うまでもないだろう)と比べて、軽やかに「残酷さ」「気味悪さ」が「ポップ」と手を結ぶ余地を残す。

 『ゆれる人魚』(アグニェシュカ・スモチンスカ監督/ポーランド2015年)は、そこそこ気の利いたオリジナル脚本ではある、しかし原作はあのクラシックス、あの「人魚姫」なのである(一応、ぐらいですが)。そして本作の人魚姫は、姉妹(双子ではない)で、80年代テクノ・ニューウエーヴィーなミュージシャンで、ある条件下では下半身も人間のそれになる。どころではない、実年齢よりも10歳は若く、つまり10代の少女に見える主演女優の二人は、女陰と肛門以外はスクリーンに堂々と晒し、マーメイド・フェチ、アンダーウォーター・フェチ(大きな水槽の中で潜り、歌うパフォーマンスあり)、キメラ・フェチ(人間と別の動物の合体フェチ)、といった中弱規模のフェチを悠々とカヴァーした上で、ロリコンという巨大マーケットに平然と打って出る(そこそこのセックスシーンあり〼)。

Arrow
Arrow
ArrowArrow
Slider

 そして彼女たちは、「うえ~ゲンナリ」というほどでも「うっわ!こわっ!」というほどでもなく、どちらかといえば我々の、温かい失笑を買う程度には、人間の内臓を、口の周りを血だらけにして喰らい、古典的な原作を一捻りし、恋人になりかけたが結ばれない美少年の王子様を噛み殺してしまう(ネタバレ回避のため、表現は曖昧にしてあります。しなくても大差ないと思うが)。最後になったが、そんな彼女たちは、陸で見つけられ、どこに定住し、何に就労するのか? ストリップティーズまで含めたダンスショーをコンテンツとする、ナイトクラブ(60年代には隆盛を極めたこうしたナイトクラブはポーランドでは「ダンシング」と呼ばれ、本作の原題の逐語訳は「ダンシングの娘たち」である)に、ショーガールとして雇われ、素晴らしいバーレスク・ショーの数々を見せてくれるのである。見たいですか? 見たいでしょう?

「菊地成孔の『ゆれる人魚』評:懐かしの<カルト映画>リヴァイヴァルとしての『ゆれる人魚』」のページです。の最新ニュースで映画をもっと楽しく!「リアルサウンド 映画部」は、映画・ドラマ情報とレビューの総合サイトです。

表示切替:スマートフォン版 | パソコン版