菊地成孔の『ゆれる人魚』評:懐かしの<カルト映画>リヴァイヴァルとしての『ゆれる人魚』

菊地成孔の『ゆれる人魚』評

では、何をしてカルト映画と感じさせるのだろうか?

 第一には、実際はどうあれ、ポーランドという国が、60年代に比べれば、ソヴィエト連邦にいじめられまくってボロボロの貧国、とイメージできなくなったことだろう。本作には、今や『ラ・ラ・ランド』(16)風の、で通用するようになった、セット内全員が歌い踊るプチ・ミュージカル・シーンまであり、人魚の特殊メイク、そして、後述する、大変に優れたオリジナルの音楽まで、「貧乏くささ」が全くない。潰れそうな店、貧国ポーランドのリアリティを描くための「敢えての場末=貧困」表現はあるが、あくまで作り物の貧しさである。

 にも関わらず、誤解を承知ではっきりと言うが、ストーリーは詰まらないのである。つまりここに「貧しさ」がある。これは「ハリウッドのヒーロー物全般の、コンピューターで算出したかのようなストーリーテリングと比べて」という意味である。「いくら特殊メイクったって、人魚姫でしょマーヴェルみたいに行くわけないじゃん」等と言うなかれ、今や「ハリウッドエンターテインメント式」の脚本作法は、数名の登場人物による家族の人間ドラマにさえ応用できる、観客誘導力を持っている。

 登場人物にグイグイ移入でき、弄ばれるがの如くハラハラドキドキし、心拍数を大いに上げられた上で、ちゃんと思い通りのエンディングが訪れて大満足、人間はここに満腹感に似た体幹を覚え、対価を払う価値を見出す。

 VFXを使わなくとも(因みに本作では使用されない。そこがかえってエロい)貧乏感=空腹感は生じない、しかし、物語に乗っけてくれて、グルングルンに振り回してくれないと、地球全体が崩壊の危機にさらられようと、ヒロインかヒーローが難病で死のうと、我々は空腹感を覚えるようになってしまった。

 この、ファストフードにも似た「脚本の<喰わす>力」は、ファストフードのチェーン展開が地球全域に広がる前までは、ワールドスタンダードたりえなかった。「すげえ良い感じなんだが、何かにかけている。だがそこに熱狂的なファンも多い」と、大雑把に「カルト映画」の定義を仮設するなら、こうなる。連続的に活動しない地下アイドルのようなものだ。

 本作は、とにかく音楽を聴かせたすぎ、人魚姉妹の半裸、もしくは全裸を見せたすぎ、バーレスクショーを見せたすぎる余り、脚本はまあ、「最終的に<人魚姫>をなぞって、今風に味つければいいでしょ」といった、手抜きとも、才能の劣性とも違う、「まあ、こんなもんでしょ」感が漂う。ここに、今では亡霊でしかありえない、懐かしの「カルト映画」感がうっすら蘇る(ちなみに、脚本のドライヴ力と並び、現代のファストフードの一翼を担う「ダンス」の力も本作は使わない。主人公二人は、基本的に簡単な振り付けの踊りさえせず、人魚ですよすごいでしょう。という「見世物の生物」にほぼほぼ徹する。軽く踊ったりするが、ダルくゆらゆらする程度である。ここにも「食い足りなさ=でもそこが良いんじゃん」というカルト映画の属性が忍び込んでいる。また、二人の「美人度」も絶妙で、新体操、フィギュアスケートなどの芸術点含め型のオリンピック競技の東欧女子選手アヴェレージからすると、むしろインスタグラマラスなリアルキューティーで、ここにも「美少女」というファストフードがない)。

素晴らしい音楽、そして、それが仇となる設定

 ポーランドのインディーロックシーンに君臨する、まだ10代のブロンスキ姉妹は(誤解を招きやすいので注意、主人公二人の役者と彼女たちは別人である)、大変な才人とも言えるし、ユーチューブで古典が学べ、PCによって実作の実験がやり放題である現代から見れば、チョイスセンスが良いだけの凡人かもしれない、とも言えるが、とにかく「80年代風」の再現力はかなり高く、当然ながら、両親は「ダンシング」で、ミュンヘンディスコやニューウエーヴ系のキャバレー音楽をハウスバンドで演奏したりしていた、つまり直接遺伝である。

 あらゆる音楽評論家は、本作の音楽的なひらめきと成熟を褒め称える、沸点の低い者であれば「エイティーズ・エレクトロ・ディスコ・ミーツ・ザ・ピーナッツ!!!!」ぐらい叫んでよだれを流すだろう(一番近いのはゴールドフラップだけどね)。

 が、しかし、ここが仇となる。どんな欠損や不足も「カルト映画風」という亡霊の立ち位置によって栄養にしてしまう本作の、唯一の動かしがたい弱点は、「これが、現代のポーランドを舞台にしていない」事である。

 ああなんと(未見の方には通じづらい感嘆だろうが)本作は、「80年代リヴァイヴァルが横溢する、今のプラハ(でもワルシャワでもどこでも良いが)のナイトクラブ」ではなく、「実際に80年代当時」を舞台にしているのである。

 だったらダメよ。もう一挙にダメよ。何がダメか? もしそうであるなら、音楽は考証の対象になってしまう。使用楽器、マイク、周辺機器、作曲の構造、歌い方、全てを「当時の物」にする必要性が生じてしまう。ほとんどの読者に伝わらないと思うが、あの、音楽シーンを半分支配するシンセベースは、00年代以降のエレクトロの音色で、当時はあんな音色なかったよ。あれは、リヴァイヴァル的に発達した「今の音」だ。テクニカルターム使っちゃうと、ソフトシンセの音で、ヴィンテージシンセの音ではない。

 下手に音楽家である筆者は、全編が終わって、紙資料を読むまで、これが「当時を再現した物語」だとは全く思っていなかったので腰が抜けた。前述の通り、80年代の音楽は非常に遺伝子が強く、90年代にも00年代にも、10年代も終わろうという現在でもリスペクトされ続け、リヴァイヴァルされ続け、その都度、完全再現志向ではなく、発展志向で動いてきた。「エレクトロなんとか」というジャンルは、今をときめくEDM(一応念のため、これは「エレクトリック・ダンス・ミュージック」の頭文字である。もう、元も子もない)に至るまで、連綿と続いてきた。

 インスタグラマラスなリアルキューティーで、惜しげもなく半裸/全裸を見せる彼女たち、そして彼女たちのバックを務めるハウスバンドのサウンドは、濃密なエイティーズ音楽、しかも東欧オリジナルという、極めて魅力的なものでありながら、時代考証という意味に於いては、最初から放棄している=現在の音、の素晴らしさを優先させている。

 慌てて再見した筆者は、「あ、ほんとだ、街並みとか服とか、今のじゃねえや」と改めて思ったのであった。これは筆者が音楽ばかり注目している、という訳ではない。もちろん、それほど本作は音楽映画である。しかし、「ポーランドって、新市街あるの? 未だに全部が古都なんじゃないの?(あんまり何も変わってないんじゃ?)」という、東欧社会に対する偏見の方が大きく作用したと思う。ポーランド語ネイティヴの方なら、しゃべり方(当時の流行語とか)とかで、すぐにわかったろうに。

 そう、最大の「欠損感の魅力=カルト」は、「時代考証性というファストフード」が、気付いたら喰えていなかった。しかし美味いし、そこそこ腹も膨らむ。ということだったのかも知れない。

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