『ジャスティス・リーグ』に見る、DC映画の路線変更は本当に良かったのか?
バットマン、ワンダーウーマン、フラッシュ、アクアマン、サイボーグ…DCコミックス原作のヒーローたちが手を組んで、より強大な悪と戦うコミック作品を映画化した『ジャスティス・リーグ』。すでに興行的に大成功を収めている、マーベル・コミック原作の映画『アベンジャーズ』の二番煎じのように見られている向きがあるかもしれないが、ヒーローのオール・スター・チームを作るというアイディアは、1960年の原作コミックにおいて、DCがマーベルに先駆けて実現させている。その意味では、『ジャスティス・リーグ』こそ「元祖」ヒーロー集結作品といえるだろう。
『アベンジャーズ』シリーズを超える巨額の制作費を投じたことで、ワーナー・ブラザースが本作『ジャスティス・リーグ』にかけた期待の大きさはうかがえる。だが、ふたを開けてみれば、批評家からの評価はそれほど芳しくなく、また近年のDC映画の中でも興行収入が振るわないなど、『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』公開時を彷彿とさせる苦境に立たされてしまっている。ここでは、そんな本作に何が起こったのか、様々な背景を追いかけながら、DC、マーベルを含めた今後のヒーロー映画がどうなっていくのかを考えていきたい。
DC映画といえば、『ワンダーウーマン』という、2017年のヒーロー映画1位の座に輝く大ヒット作を生み出したばかりだ。もちろんワンダーウーマンは本作にも登場しており、やはりヒーローたちの中でも強い輝きを見せている。とくに、悪党が一般市民をマシンガンで一斉に掃射しようとすると、その連続する弾丸を次々にはじき返し、誰一人として被害者を出さない、本作冒頭のアクションは激アツであった。それは奇しくも2017年にアメリカで起こり、大勢の被害者を出した複数の銃乱射事件を思い起こさせ、現実とのつながりを意識させるものだった。
『ワンダーウーマン』が大成功したとはいえ、まだまだDC映画が、総合的には興行面でマーベル映画に後れを取っているのは事実である。観客の支持を受け安定的にヒットを続けるマーベル映画に対し、DCが苦戦を強いられている大きな要因は、やはりその暗い作風にあるだろう。クリストファー・ノーラン監督のバットマン映画『ダークナイト』のヒットを基に、ザック・スナイダー監督が受け継いできた、リアリティやノワール風の美学を重視する、いわゆる「ダーク路線」である。様々な監督が個々に作家性を発揮しながらも、結局はこの路線に連結されることになる。
このダークな手法で、ノーラン監督のバットマン映画、とりわけヒーロー映画に強烈なリアリティを求めるアクロバティックな姿勢が新鮮だった『ダークナイト』が強い支持を得たのはたしかだ。そして、ザック・スナイダー監督による『マン・オブ・スティール』、『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』で、現実ばなれしたスーパーマンの強大なパワーを扱った荒唐無稽な題材を、同じように暗い雰囲気とリアリティを重視する演出を継続するというのは、さらに挑戦的な行為だったように思える。それはマーベル映画における、ヒーロー同士の仲の良い交流や、ギャグを多用する楽しい雰囲気とは対照的で、広い観客を意識したヒーロー作品としては賛否が分かれる作風であるといえる。現在の興行収入の推移から、マーベルの側に、より多くの観客の支持が集まったことからもそれが分かる。
本作にとって、それよりも打撃だったのは、DC映画の中心的な監督であり、本作も手がけたザック・スナイダー監督が、映画の完成を前にして、家族の自殺という不幸にみまわれ降板したという出来事であった。そこでワーナーは、なんと『アベンジャーズ』、『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』を監督した、ジョス・ウェドンを招聘し、再撮影を含む製作を継続させたのだ。たしかにウェドン監督はマーベル映画との決別を宣言していたが、これはほとんど「反則」ではないかと思える登用である。彼が新しく演出した分量は2割ほどで、基本的にザック・スナイダーの意図に合わせていると発表されているが、本作を観る限り、その枠のなかでギャグ、ユーモアを最大限に詰め込み『アベンジャーズ』寄りの作風になったのを感じ取ることができる。後任のウェドン監督が実質的な権限を与えられたことは、監督との確執で作曲者のジャンキーXLが解任されたという事実からも明らかである。