『マイ・ライフ・ディレクテッド・バイ・ニコラス・ウィンディング・レフン』評
『オンリー・ゴッド』は失敗作だったのか? N・W・レフン監督の苦悩捉えた迫真ドキュメンタリー
『オンリー・ゴッド』は、作家主義の権化である
『オンリー・ゴッド』で描かれた物語とテーマを要約してみよう。タイ王国の首都バンコクに、ボクシングジム経営を隠れ蓑に、違法なドラッグ・ビジネスを営むアメリカ人の兄弟がいた。ある日、性的な衝動をきっかけにして、兄は現地の少女を無残にも、なぶり殺しにしてしまう。そして彼もまた、ある男の手引きによって殺されることになる。事態の解明に乗り出した弟ジュリアン(ライアン・ゴズリング)と、信じがたいほど口の悪い差別主義者である母親(クリスティン・スコット・トーマス)は、バンコクの街で裁きを執行し続ける謎の男にたどり着く。
ここに描かれているのは、かつてイギリスが、インドや中国でアヘン貿易を行って不当な利益を得ていたように、西洋の傲慢な覇権主義と、彼らに支配され簒奪される東洋という構図である。植民地の歴史や、経済力や軍事力による東西の関係を、抽象的に表現しているように見えるのだ。ゆえに、本作におけるアメリカ人一家は、裁かれるべき罪人として象徴的に描かれる。また同時に、ジュリアン自身が過去に犯した殺人への苦悩と贖罪も、謎の執行者によって裁かれようとする。そこにあるのは、前向きなカタルシスが排除された、陰鬱で痛みをともなう内省的世界である。
映画を観ながら私は、賛否が分かれることは間違いないだろうし、むしろ否定的な評価が多く集まるだろうと確信していた。しかしそれ以上に、激しく興奮していたことも事実である。ここまで観客に媚びずに、自分のやりたいことを自由に貫き通した映画は、めったにあるものではない。映画が終わったときに、あまりの感激に、珍しくひとりで拍手をしていた。この映画を世に送り出したレフンの勇気、そして狂気に身をゆだねようとする、真摯な姿勢に対してである。これこそ、真に「作家主義」といえる映画だ。
漂い出す「失敗の予感」
しかし、こんな作品を撮った背景には、やはりとんでもない苦労と苦悩が隠されていたらしい。本作『マイ・ライフ・ディレクテッド・バイ・ニコラス・ウィンディング・レフン』は、『オンリー・ゴッド』撮影前に、タイの高層住宅に移り住んでまで作品の準備をするレフンと、彼に同行して一緒に暮らす、妻や子供たちの生活が映し出される。
面白いのは、レフンは撮影前の準備段階から、「『ドライヴ』ほど売れないだろうな…」と弱音を吐いているという事実である。妻のリブも、「私も売れないと思う」と同意する。彼らは、これまでの経験から、ある程度の展開が予想できてしまうのである。撮影が始まると、次第にレフンは弱音を吐くことも、苛立つ場面も多くなって、「失敗」の予感が濃く漂ってくる。もちろん失敗はしたくないし、するつもりもない。しかし、失敗を示す要素がいくつも顔を出し始めるのだ。それを感じながらも、彼らはもう動き出した撮影スケジュールを止めることはできない。これが映画製作のおそろしさである。
撮影が進むごとにレフンは不機嫌になり、それが家庭の不和を呼び、リブもまた疲弊していく。そして、レフンの口からとうとう漏れてしまう禁句。「駄作だ!」「失敗だ!」