実写版『美女と野獣』が描く“愛の試練” 現代に問いかけるメッセージとは
「ヒゲを生やしてみたら?」。実写版『美女と野獣』では、エマ・ワトソン扮するベルが、美しい王子の姿に戻った野獣にこんなセリフを放つ。
『美女と野獣』には“人を見た目で判断するな”というメッセージが込められているというが、筆者はずっと疑問だった。“じゃあ、野獣のままでよかったんじゃないの?”と。 だが、本作で加えられたこのセリフで、これも愛の試練なのかもしれないと思った。なぜなら、ベルは野獣の容姿の王子を愛したのだから。“イケメンになったら、なんか違う……”では、それこそ“見た目”にとらわれているということ。ヒゲを生やす提案は、野獣の変化に愛を持って順応しようというベルの小さなもがき。おそらくこの先、年を重ねていくうちにふたりの容姿も変化するだろう。どちらかが、先に天に召されて姿そのものがなくなるかもしれない。どうしようもない変化(運命)をも受け入れ、他者を愛する努力ができるか。“美しい王子様と幸せになりました、めでたしめでたし”で終わらない。そこに、現代に蘇った『美女と野獣』のテーマが込められているように思える。
この物語が示す“人を見た目で判断するな”とは、“表面的な情報にとらわれるな”ということではないか。他者と生きていくことは、異なる考えや変化を受け入れる作業の連続だ。それは男女間ではもちろん、親子でも友人でもそうだ。“醜さ”とは、“未知なるものへの恐れ”を象徴しているように思う。古い物語が語られるタイミングには、理由がある。今こそ『美女と野獣』を観たほうがいい理由を、原作、アニメ版、実写版の違いから紐解きたい。
その時代の先進的な存在として描かれるベル
『美女と野獣(ラ・ベルとラ・ベート)』が生まれたのは、1740年。厳冬による大飢饉、パンの価格高騰による食糧暴動……封建制度が批判され、人間性解放が謳われる、フランス革命に向かっていく社会のなかで、この物語が誕生した。もちろん女性の権利や自由が制限されている時代。ベルは、物怖じせず野獣に「心にもないことは申せません」と意見を述べる自分に正直な女性として描かれた。
1991年に公開されたディズニーアニメ『美女と野獣』では、自分で生きる道を切り拓く聡明な女性となった。「私は過去のものではなく、90年代の女性を描きたかった」と脚本家のリンダ・ウールヴァートンも語っている。世の中は、女性の社会進出が進み、男女平等の意識が着実に浸透していったタイミングだ。(参照:ディズニーのアニメ映画『美女と野獣』のトリビア12)
そして、2017年。エマ・ワトソンが演じるベルは、毎日同じ繰り返しの小さな村を、退屈だけど安全な場所と認識し、野獣の背景を配慮しなかった自分を「無垢で無知だった」と省みた。自分の考えは、広い世界にたくさんある価値観のなかのひとつでしかないこと。生き方の多様性、マイノリティの存在を認めていく、今の世の中で“未知のもの=醜いもの”を恐れない、そんな勇敢な女性に描かれている。『美女と野獣』の物語は、社会の変化を受け入れるタイミングで読み返されているものなのかもしれない。
母親に投影される、逃れられない運命
本作では、原作にもアニメ版でも語られなかった、ベルと野獣の母親の存在がクローズアップされている。ふたりのルーツを知ることで、より人間味を帯びるのと同時に、自分ではどうしようもない運命的なものがあることを、強調しているように思える。
ベルも野獣も幼いころに母を亡くした。寿命も、環境も、人は操作できないのだ。ベルは、父・モーリスに連れられ、パリの疫病から逃れるように小さな村へ。野獣も、父親によって城の中でワガママ放題に育てられた。「あんな風に育てられてしまったのを、私たちは見ているだけで何もできなかった」とポット夫人が語るのも本作のオリジナル。人の心を持たない王子は獣へ、何も言えない家臣はモノへ……魔法によって変えられた姿は、魔女の皮肉だったのか。
魔女・アガットの活躍もアニメ版にはない演出だ。魔法をかけて終わりなアニメ版に比べて、村に身をひそめて顛末を見守る。小さなコミュニティは窮屈だが安全だ。だが、ベルも野獣もいずれ小さな世界から一歩を踏み出し、他者との関係性を築いていかなくてはならない。それを学ぶべきだと、愛の試練を与えた魔女・アガットは、亡くなった母たちの象徴だったのかもしれない。