『ゴースト・イン・ザ・シェル』はなぜ“中途半端”な作品になったのか?
公開から…というよりも、公開前から攻殻機動隊ファンを中心に賛否両論が巻き起こっていた、『ゴースト・イン・ザ・シェル』。攻殻ファンの筆者としても、キャスティングやビジュアル公開の時点でどこか気乗りしなかったというのが本音だ。
そして、「きっとこれまでの攻殻作品とは別物」と心の中で唱えながら劇場へ足を運び、案の定「これまでの攻殻作品とは別物」の仕上がりを目の当たりにした。しかし、想定していた通りの違和感やコレジャナイ感のみならず、一映画作品としての物足りなさも同時に強く感じられてしまった。一言でいってしまえば、『ゴースト・イン・ザ・シェル』は“中途半端”な作品だったのだ。
メインターゲットは初見者か、ファンか? 曖昧なベクトル設定
まず、どの観客層を一番のターゲットにしているのか。このベクトルが不明瞭だった。もちろん、予算から見てもっとも大切にすべきは、「これまでの攻殻作品をほとんど知らない一般層」だろう。過去の攻殻作品は、設定やセリフが難解でわかりにくい。なので、そのままのテイストで初見者に受け入れられることは難しいだろうし、脚色はあって当然といえる。そうして脚色された結果、攻殻作品群の核である「哲学」の部分が大幅にカットされたのは正直切なかったが、こればかりは仕方のないことだ。
だが、それならそうで、新たな路線を追求すべきだったのではないか。本作では、原作やアニメへのオマージュが驚くほど取り入れられていた。これは既存のファンへのアピールに限らず、監督なりの愛情表現もあったのだろう。しかし、こうした過剰なまでの原作リスペクトは、はたして初見層にとって必要だっただろうか? 設定や脚本は初見者向けなのに、演出はファン向け。こうして一貫したターゲットが定まっていないことで、作品のベクトルにもブレが生じていたといえる。
結果、初見者からは「詰め込みすぎで言いたいことがよくわからない」、ファンからは「愛は伝わるけど過去作とは全然違う」と否定的な意見が芽生えたのではないだろうか。
「金字塔」と呼ぶには弱すぎるアクションシーン
ターゲット設定に限らず、要となるアクションもかなり中途半端なものだった。本作は「SFアクションの金字塔」と謳っているのに、アクションシーンがとにかく弱いのだ。
デジタルを駆使した街並みや美術はとても綺麗だし、スカーレット・ヨハンソンが演じる少佐も美しい。冒頭で少佐がガラスを蹴破るアクションには、目を見張るような美しさがあった。しかし、その後のバーでの格闘は一変して泥くさかったし、ビートたけし演じる荒牧の銃撃シーンはもはや完全に『アウトレイジ』。ラストでは急に多脚戦車が登場するし、アクションシーンのコンセプトが総じてバラバラなのだ。
さらに、このアクションシーンがとにかく短い。心理的盛り上がりがほとんどないまま、あっという間に終わってしまうのだ。これなら、攻殻機動隊に影響を受けて作られた『マトリックス』の方がよっぽどドキドキしたし、印象に残るアクションシーンも多かった。
アクションの印象が弱いのは、尺の短さ以外に「音楽」の影響も考えられる。前述した『マトリックス』の名シーン、ロビーでの銃撃戦(有名な弾除けシーンではなく)で盛り上がりに一躍買っていたのは、紛れもなくバックミュージックの存在だ。アップテンポなデジタルサウンドによって、シーンの“かっこよさ”が増幅されているのだ。それと同じように、攻殻アニメシリーズでもサントラは非常に重宝されている。だが、『ゴースト・イン・ザ・シェル』ではほぼ終盤まで、ノイズや効果音のような前に出てこないBGMばかりだった。そのため、本来ならもう少しは盛り上がるであろうアクションシーンでも、淡々とした雰囲気のまま次のシーンに切り替わってしまうのだ。
せめて、アクションシーンにもう少しインパクトがあれば、多少は酷評を避けられたのでは…。そう思えてならない。