ヒッチコックからイーライ・ロスへ 『ノック・ノック』とヴィジット・スリラーの系譜
傘を持って風に乗って空を飛び、子供たちに歌を歌いながら人生の価値を教え、家族をかえりみない父親を改心させ、問題ある家庭を救ってくれるのがメリー・ポピンズだ。「ゴア・ムーヴィー(またはスリラー)の巨匠」と呼ばれるようになったイーライ・ロス監督の新作である、本作『ノック・ノック』にも、ひとり父親が留守番をしている家に突然やって来て、歌を歌ったり飛んだり跳ねたりして家具を壊し、父親を誘惑したり不道徳な振る舞いをする女が出てくる。似ているような気もするが、こちらは家庭を崩壊させてしまう恐ろしい存在だ。その意味では本作は「逆メリー・ポピンズ」といえるだろう。
善き夫、善き父親として理想的な家庭生活を送っている中年男性エヴァンは、妻や子供たちが旅行に出ていくと、家で仕事をしながら、お気に入りのレコードをかけ、久しぶりに一人だけの時間を楽しんでいた。そこに一回り以上、下手したら二回りも若い見知らぬ美女がふたり、雨に濡れて下着が透けた姿で訪ねてくる。彼女たちは道に迷ったのだという。思わず顔がほころんでしまうエヴァンは、怪しみながらも彼女たちを招き入れ、タクシー会社に連絡をとるなど親切な対応をすると、女たちはしきりにエヴァンに密着し、甘い言葉で誘惑してくるのだった。家族が外出してるタイミングに見知らぬ若い女性たちが偶然に訪ねてきて、それぞれに熱烈なアプローチをしてくる。まさに、多くの中年男性にとってのファンタジーである。だが、そんな都合の良い出来事は、映画の中とはいえ起きるわけがないのだ。
エヴァンを演じるのが、『スピード』や『マトリックス』などのスター俳優、キアヌ・リーヴスだ。見た目もパブリック・イメージも、「ミスター・誠実」と言ってもいい、 淡白とすら感じさせるほどにさわやかな元青春スターであり、アクション俳優でもある彼が、彼女たちの策略に溺れる間抜けな役を演じるのが、本作の面白いところだ。
彼女たちの繰り出すあらゆる誘惑攻撃を耐え紳士的な対応でかわしていく、キアヌ演じるエヴァンだったが、とうとう一線を超え、彼女たちとベッドで夜を明かしてしまう。ここから彼の地獄が始まるのであった。彼女たちは全く帰ろうとはせず、態度は図々しくなり、器物を破壊し始め、警察に連絡しようとしたエヴァンを脅し、縛りあげ様々な拷問を開始するのだった。
外から何者かが訪問し、災難や恐怖を引き起こすという映画作品。ここではそれらを「ヴィジット・スリラー」という名で呼びたい。映画史において、この手のジャンルは多く、その歴史を追うとサイレント期にまでさかのぼる。
フリッツ・ラング監督の『死滅の谷』(1921)は、幸せな恋人たちの下に死神が訪れ、男を連れ去ってしまうという物語だ。「死」そのものが訪問してくるというイメージは、まさにこのジャンルを代表する、運命的な不吉さと恐怖をはらんでいるといえるだろう。このモチーフは、死の手を逃れ延命をはかるべく、死神とチェスをするという、イングマール・ベルイマン監督の『第七の封印』(1957)に引き継がれる。
余談だが、『第七の封印』をパロディ化した作品『ビルとテッドの地獄旅行』では、キアヌ・リーヴス演じるおバカ高校生が死神と、チェスではなくツイスターゲームや軍艦ゲームなどで対戦し、完膚なきまでに死神を屈服させ、死を克服するという場面があった。そこでおバカなノリを繰り返していたキアヌが、本作では若い女たちのノリに全くついていけないという演技が似合うようになっていて、時代の流れを実感してしまった。
『ノック・ノック』の冒頭では、エヴァンの家の中をカメラが移動し、室内の家具や家族写真を映しながら持ち主のキャラクターを紹介していく、オールドスタイルなサスペンス演出「ヒッチコック・タッチ」が見られる。「サスペンス映画の神」と呼ばれるアルフレッド・ヒッチコック監督にも、「ヴィジット・スリラー」作品が複数ある。彼がイギリス時代に娯楽サスペンスのスタイルを確立させた記念的な映画、『下宿人』(1927)は、連続殺人事件が世間を騒がせるロンドンの貸部屋に怪しげな男が入居してくるという作品だ。ロンドンの不気味な霧とともに男が佇む映像の恐ろしさは映画史随一である。
ミヒャエル・ハネケ監督の、殺人鬼が家族を監禁する『ファニーゲーム』(1997)のような、ただただ陰惨な問題作がある一方で、魅惑的な人物が家族を篭絡し家庭を崩壊させる、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督の『テオレマ』(1968)や、押井守監督の、映画化もされたOVA『御先祖様万々歳!』なども、この系譜に入る。そこで描かれるのは、「家庭」という、変化や刺激の少ない日常を、「外部的存在」が撹乱し打破するという状況そのものだ。そしてそれは、ときに撹乱される者自身の隠された願望でもある。『ノック・ノック』の主人公であるエヴァンも、そのような日常のなかで、「善き夫、善き父親」となってしまった自分のアイデンティティーに対して密かな不満を募らせていたのだろう。象徴主義的な見方では、それが「訪問者」という具体的なかたちで現れたのが、本作の女たちである。