白石晃士監督『貞子vs伽椰子』は、“対決モノの壁”をどう乗り越える?
90年代後半に大ブームを巻き起こし、日本だけでなく、遂にハリウッドにも進出したジャパニーズホラー(以下、Jホラー)。そのブームの火付け役ともなった、Jホラーの代表作と言える『リング』シリーズの山村貞子と、『呪怨』シリーズの佐伯伽椰子が、作品の垣根を超えて対決するという、ファンにとっては夢のプロジェクトが遂に完成した。
メガホンを握ったのは、日本中のホラーファンを驚愕させたフェイク・ドキュメンタリーの傑作『ノロイ』を手がけた白石晃士。ドキュメンタリーという手法を逆手にとって、リアルさを更に追及させる演出が光る手腕の持ち主だ。
当初は単にエイプリルフールのジョークのひとつとして、ネット上に拡散されていたネタが、ホラージャンルの第一人者である白石監督の手によって、本当に映画化されるというニュースを聞いたファンたちが狂喜したのは言うまでもない。
未だに映像化されていない鈴木光司の原作『ループ』の結末で、ホラーからSFに移行してしまった感のある『リング』シリーズの貞子を、再び恐怖の女王へと降臨させる術として、もう一人の最恐キャラである『呪怨』の伽椰子を対決させるという秀逸なアイデア。この誰もが考えていたけれども実現は不可能だと思われていたプロジェクトは、単にエイプリルフールのネタだけで済ませる訳にはいかないという、監督のフィルムメイカー魂がひしひしと伝わってくる作品に仕上がった。
『貞子vs伽椰子』の公開に先立って、この春公開された『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』や『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』等、今の映画界のトレンドの一端を担っているのが、いわゆる“対決モノ”だ。かつて日本では東宝特撮シリーズの定番として、怪獣同士の戦いを題材にした作品群で確立したジャンルの一つだが、それらの多くが“善”対“悪”というシンプルな構図で描かれた勧善懲悪モノであった。プロレスで言うところの“ベビーフェイス”と“ヒール”の関係といえば分りやすいだろう。
そのシンプルな“善”対“悪”という構図を覆したのが、昨今のハリウッドの“対決モノ”と言える。『貞子vs伽椰子』同様、ハリウッドが産んだ2大ホラー・フランチャイズのスターであった『エルム街の悪夢』のフレディ・クルーガーと『13日の金曜日』のジェイソン・ボーヒーズを対決させた『フレディVSジェイソン』や、ダークホースコミックスの人気企画から生まれた『エイリアン vs プレデター』に代表する“悪”対“悪”という構図。また、先に述べた『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』や『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』のような“善”対“善”の対決というニュートラルな位置付けの作品が多いのも特徴の一つだ。
日本でも、“善”対“善”の対決モノの一つとして、岡本喜八監督による『座頭市と用心棒』が作られており、同作も“すでに人気が確立したキャラクター同士の対決”という日米の“対決モノ”に共通する点で、いやおうなく観客の興味を引く事に成功し、興行的にも大成功を収めている。
しかし、人気キャラクター同士の対決というストーリーは、双方を立てなければならないという“大人の事情”が付きまとってしまう。その“大人の事情”が足かせとなり、最終的には曖昧な結末を迎えてしまう作品が多くなってしまう。対決と言いつつ、第三者的なヴィランを発生させ、敵対していた者同士が手を組んで戦うという、ドロー寄りのストーリーになってしまう事が多い。それが“対決モノ”の最大の“壁”である。
例を挙げると、日本を代表する“ある人気キャラクター”は、ハリウッドでのリメイクの際、契約上「それを殺してはならない」「それは人間を食べない」という細々した制約があり、その制約に振り回された脚本家が暴走した末に、“一番採用されなそうなプロットとデザイン”を提出したら、それが採用されてしまった…という冗談のような話がある。それは、先ごろ脚本家本人の口から、英エンバイア誌のインタビューで暴露された(あえてタイトルは伏せるが、トカゲみたいな怪獣が出てくる映画の事である)。
こうした大人の事情で、単純に勝敗がつけられないという最大の“壁”を、秀逸なアイデアで乗り切った奇跡の“対決モノ”が、『エイリアン vs プレデター』だ。極悪異星人同士を、如何にして対決させるか? という起承転結の“起”の部分に於いて、太古の時代から地球上で行われていた、プレデターの成人儀式の闘いという突拍子もないプロットを盛り込んできた同作。単なる狩りの獲物として地球に送り込まれていたエイリアンと、それを倒すことで成人として認められるというプレデターの死闘に、運悪く巻き込まれてしまった人類という構図を盛り込み、“対決モノ”の中でも極上のストーリーに仕立て上げることに成功している。