『園子温という生きもの』と『ひそひそ星』に見る、園子温監督の多面的な表現世界
(メイン写真『園子温という生きもの』より)
何時何分何秒、刻一刻と時間が過ぎていく。『桂子ですけど』は、園子温監督の初期の頃の作品だ。もうすぐ22歳を迎える桂子の、時間と自己との関係性。ただそこにあるのは、桂子の何気ない日常と、刻まれて行く時間と、桂子の時間に対する語りだけである。その単調な繰り返しで、1時間1分1秒が過ぎて行った。驚いたのは、その後の自分の時間に対する感覚の変化である。まるでサブリミナル効果かのように、その記憶はいつの間にか体に強く刻まれており、その効果にハッとさせられた。
『園子温という生きもの』冒頭。無造作に塗り付けた絵の具を、感情の赴くまま指で伸ばし、真っ白なキャンバスを滅茶苦茶に汚していく。若干テキトウで、酔いが回ってふざけているかのようにも見えるが、その言葉は確実に真意を突いている。「いい悪いでなく、描いて、表現して生きることが、人間にとっていいこと」なのだと、園子温は言う。ただただその言葉が、園子温そのものを表し、また園子温の原点なのだろうと思った。映画としてどうかというより、もうそれを越えて表現なのである。「芸術は爆発だ!」なぜか、岡本太郎の言葉を思い出した。映画ももとはと言えば、真っ白なキャンバス、表現である。そこに絶対的な形など存在しない。
昨年は『ラブ&ピース』『新宿スワン』など、4本が劇場公開された。『愛のむきだし』『冷たい熱帯魚』などでの、この上なく狂気的な表現も特徴の一つで、アクの強い暴れ馬のような人となりのイメージがあったのだが、このドキュメンタリー全体を通してみると、意外にも可愛らしく、愛に溢れた人間像が透けて見える。この人格の多面性が、狂気性だけではない、例えば今回の『ひそひそ星』のような繊細な作品をも生み出せる、源となっているのかもしれない。0か100か、ある時は限りなく静、ある時は限りなく動。その究極な振り切れ度合いに、生身の人間らしさを見る。
園子温監督=エログロ枠、勝手にそんな世間的イメージが出来上がりつつあるようにも感じるが、私の中では枠にはまらない多様な顔を持つ表現者、そんなイメージがある。ビジネスとしての作品もあれば、実験的ともとれる作品もある。表現をしながら、それを遊び、俯瞰して反応を見ている気さえする。作品タイプがいくつかに分かれるものの、園子温=こうである!という図式が成り立たない。以前の自身の作品じゃないけれど、自分は自分、俺は園子温だ!という魂の叫びが、映画にそのまま焼き付いている。その魂を直接的に受け取っている感があるからこそ、私は熱狂的になり、共鳴するのだ。
血で血を洗うような、感情むきだしの狂気的なシーン。もし人間の中に理性など存在せず、何もかも削ぎ落して、自分の負の感情にそのまま身を預けるならば、園子温監督が描く破壊的な世界へといつでも繋がってしまうのではなかろうかと想像する。私たちは日常的に、心の中で笑い、怒り、叫ぶ。その心の中の葛藤を、まるで実写化されているような気分になる。嘘をつかずに、人間の感情を極限まで見せてくれる。だからこそ血が騒ぎ、生を感じる。もちろんそれは、表現の世界のみで許される行為であるのだが。その究極の感情や叫びを形にして見せてくれるからこそ、私はリスペクトしているのだ。(犯罪行為はダメです!)