裁判をエンタメ映画として成立させるにはーー『砂上の法廷』が追求するリアリティとドラマ性

「裁判」はエンタメとして成立する?

 これらの「嘘」が映画にどのような作用をもたらすのか。少なくとも、観客の持つ常識の範囲では「裁判は真実のみが語られる場所である」という前提が根付いているのであって、その中に多くの嘘が露見されると、観客は何が真実なのかが判らなくなる。証人たちが自分の不利になる発言を避ける嘘だけでなく、弁護士は被告人を無罪にするために嘘を付くこともあれば、検察は被告人を有罪にするために嘘を付くことだって無い話ではない。これこそが、この映画が描こうとしているテーマなのであって、原題にもなっている〝Whole Truth〟(=偽りのない真実)が裁判に本来求められている姿なのだということである。

 言ってしまえば、司法の現場を知っている監督が、その真実の姿を映画に置き換える本作は、ある種の内部告発のようなものである。もっとも、ほとんどの登場人物が嘘を付いているというのは少し大げさな表現の仕方ではあっても、「映画の嘘」として充分許容できる描き方であるし、結末に予想外のどんでん返しを持ってくるのも、ビリー・ワイルダーの『情婦』といった既存の秀逸な法廷劇へのオマージュとして、作品に適度なサスペンスを与えることで娯楽性を補っているのだと考えれば納得できよう。

 1950年代にフランスで法廷劇を多く手がけたアンドレ・カイヤットも、コートニー・ハントと同様に弁護士資格を有した映画監督であった。彼が53年に手がけた『洪水の前』は本作と同じように、少年裁判の開廷と共に映画が始まり、事件の全貌を少しずつ明らかにしていきながら、判決が読み上げられるラストが大きな山場となる。結局のところ、このように裁判の基本的な流れに準じて、専門性とドラマ性を兼ね備えた構成は、「映画としての裁判のあり方」も、「本来の裁判のあり方」をも理解している監督だからこそできるシンプルかつ的確な方法論であると考えられる。たしかにこのような硬質な社会派ドラマは、「エンターテインメント」とは呼び難いものであるが、映画というフィールドにおいて、「裁判」を最も純粋に描く理想的な形なのではないだろうか。

■久保田和馬
映画ライター。1989年生まれ。現在、監督業準備中。好きな映画監督は、アラン・レネ、アンドレ・カイヤット、ジャン=ガブリエル・アルビコッコ、ルイス・ブニュエル、ロベール・ブレッソンなど。Twitter

■公開情報
『砂上の法廷』
3月25日(金)TOHOシネマズ シャンテ 他 全国順次ロードショー
監督:コートニー・ハント
脚本:ニコラス・カザン
出演:キアヌ・リーブス、レニー・ゼルウィガー、ググ・ンバータ=ロー、ガブリエル・バッソ
配給:ギャガ
(C)2015 WHOLE TRUTH PRODUCTIONS, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.
公式サイト:http://gaga.ne.jp/sajou/

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