菊地成孔の欧米休憩タイム〜アルファヴェットを使わない国々の映画批評〜 第5回(前編)
菊地成孔の『セーラー服と機関銃 -卒業-』評:構造的な「不・快・感」の在処
誰が一番悪いのだろうか(=誰が一番偉いのだろうか)
既に公開されており、興収的にも批評的にも大変残念な結果を呈している作品などというのは世の中、掃いて捨てるほどある。高い確率で本作もそうであろう。
そういった作品を、ここぞとばかりに石持て追うのは端的にいじめであって、一部の血に飢えた病者(言うまでもなく、過去、いじめにあった経験に根差した怨念が消え切っていない人々)にたいする、大いなるサーヴィスには成るかもしれない(特にネット批評という偏ったフォームの中では)、とはいえ言うまでもなく、そんな事をする奴は地獄行だ。無償ならばともかく、金をもらっていじめに加担するのだから。
だがしかし、繰り返すがこれは仕事であって、何かを書かなくてはいけない。とはいえ心にもないことを書いて取り繕ったり、アクロバティックな論法で煙に捲く、といった事も、スキルとしては出来なくもないけれども、あっというまに見透かされてしまう。
ネットしか読まない人々は馬鹿であるというより完全な新種であり言葉が通じないから良いが、まだ世の中、読者全員がそうなった訳ではない。取り繕っている事が見透かされ、指摘されるという、おぞましいほどの羞恥に耐えられるのはマゾヒストだけである(「そんなに悩むなら、違う作品を選べば良かったじゃんよ」と仰る方は単純に世間知らずだ。批評家は作品を自由に選べる訳が無い。連載担当者が選んだファイナリストの中からしか選べないのである。因みに今回のファイナリストは『シェル・コレクター』と『断食芸人』と本作であり、知己ある者が出ていたり音楽を担当したりしている作品は批評しない。という個人的なポリシーによって、自動的に本作を選ぶ事となった。同じ音楽家として、武田鉄矢氏と親交があったりなんかしたら、ワタシはどうしたであろうか。仮病を使って原稿を落とすしかない)。
なので、とにかく、こうしてみることにした。「それは誠実すぎて、現実的には不可能だ」と言われるかもしれないが、こういう時はコレが一番得策であることを、ワタシは経験的に知っている。何故なら、これを行っても、具体的には誰も傷つけないし、また、現状は一切変わらないからだ。ぎりぎりで、何もしていない、という状態に等しい。
それは何か? この作品の内も外も、両方とも合わせて<最も悪い者>は誰なのか、責任を追及する、という事である。そして、かなり高い確率で<最も悪い者>は<最も偉い者>と同一人物である。
ワタシは本作の<最も悪い者>であり<最も偉い者>は、原作者の赤川次郎氏だと思う。以後、この仮説に沿って、本稿を進める。
とりあえず本作は、「あの名作のリメイク」ではない
極端な私事だが、ワタシは新宿のシネマートという映画館の前をよく通り過ぎる。韓国映画がよくかかるし、ビル内にあるタイスキ食い放題の「mk」というチェーンが好きでよく行くからだ。その際、本作のポスターが、けっこう長きにわたって貼ってあった。
これは自信をもって言えるが、ワタシも含めた「通りすがり」のほぼ100%が本作を81年の相米=薬師丸のコンビによる名作『セーラー服と機関銃』のリメイクだと思ったはずだ。
「卒業」とかくっついているが、目に入らなかったろう。確か、35年前に見た記憶では、星泉は映画のラストで高校を卒業していた気もするし(完全な記憶の改漸。映画は「まだ女子高生のままの星泉の、ある年の秋、もしくは冬、に終わる」)。同じく角川映画全盛期のクラシックス『時をかける少女』のアニメ版(こちらはリメイク)のポスターもここでよく見た事も「ここ最近、角川映画のクラシックスが、立て続けにリメイクされている」という風に思い込む傾向の一助となった。
自分が何も知らないだけで、コンテンツとしての『セーラー服と機関銃』は、かの斉藤環氏が一冊かけて考察した「戦闘美少女」というわが国固有の文化の若干早すぎた先駆として(←まったく違うと思うが、本稿では詳述しない)、「大きな期待を背負った新人アイドルの登竜門であり、女優としてのポテンシャルに対するテスターでもある、主演第一作用の演目」になっていたのであろう。舞台に於けるピーターパンとか、テレビに於ける仮面ライダーとかにも似て。
しかし、観てビックリ(まじで腰が抜けた)本作はなんと、リメイクではないのだ。
「じゃあ何なんだよ?」と尋ねられると、ちょっと口が重く成るのだけれども
これは「続編」である。うおー。同じセーラー服で(女子高の制服に関する無知を前提に勘で書くが、現在、このタイプの制服はもう、ほとんど無いのではないか)同じ機関銃(中~重火器に関する無知を前提に、目視確認のみで書くが、まったく同じ機種にしか見えない)。なのに、なのにこれは「後日談」なのである。制服と機関銃の発達は、この40年間で凍結されたが如く止まっているのだろうか?
とはいえ、この点事態が直接的に本作の傷になることはない。本作が<現在的なブレザー型の制服>で、機関銃も<米軍がイラクの砂漠で使用したような超ハイスペックなルックス>だったとしても、作品の評価はほとんど変わらなかったと推測される。