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菊地成孔の欧米休憩タイム〜アルファヴェットを使わない国々の映画批評〜 第5回(前編)

菊地成孔の『セーラー服と機関銃 -卒業-』評:構造的な「不・快・感」の在処

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それよりも、時間軸はどうなっているのだ。「後日談」の「後日」って?どのぐらい?

 この「後日談」は、なーんとコレがはっきりと「たった今、現在、今年の夏」なのである。主人公の星泉は高校3年生の夏休みを迎えている(これが、タイトルにある「卒業」と結ばれている)。

 ま、良いだろう。この程度の事は、ジャパンクールであり、ちびまる子ちゃんもサザエさんも一生年齢を重ねないという一種の病理をすんなり受け入れる我が国の伝統に従うならば、むしろ普通の事だ。

 <目高組の4代目組長、「星泉」>は、キャラクターであって、オリジナルの1981年に高校2年生もしくは1年生なのだが(「卒業を控えている」描写がオリジナルにない故の推定)、35年後の現在も女子高生のままである。

 しかし彼女は、2016年にはリアルな「卒業」を控えている。つまり本作は「オリジナル(81年)の1年もしくは2年後」でないとつじつまが合わない。そんな「後日」談なのである。

 さてここが問題だ。何が問題か? ワタシのようなクールジャパン音痴が釈迦に説法する愚は控えたいが、ここでは、サザエさん、ちびまる子ちゃん型の「世界全体が止まっている(あるいは循環もしくは反復している)」型と、「しっかりと時間設定がなされている後日談」が、特に何のコンセプトも設定も無く、ごっちゃになっている。こんな無理なキメラをご覧になったことがあるだろうか? 不勉強ながらワタシは無い。

 オリジナルで抗争した組はまだ残っている、というか、オリジナルのラストで解散した目高組は堅気になり「メダカカフェ」の営業をしている。そして、オリジナルで殉死したヤクザたち(渡瀬恒彦、大門正明、林家しん平、酒井敏也)は、設定ごと残っていない。

「当たり前だろう。オリジナルで全員死んでるんだから」。その通り。しかし、これはどうだ? 本作に登場する新たな3人のヤクザ達(武田鉄矢、宇野翔平、大野拓郎)は、「その後、目高組に入ったヤクザ」ではない。オリジナルのラスト、アイドル映画史に残る名シーンというべきあの「快・感」に着地する大きな出入りに参加している者たちが、全員生き残り、そのまま堅気になっている。という設定なのである。

 彼らを引き連れて機関銃を連射し「快・感」というシーンは、きちんと厳密に「1年か2年前の出来事」として描かれる。つまり、81年のオリジナル版と本作は、違う登場人物によって時空を超え、繋がっているのだ(やや詳述するならば、この点は、主人公の授業中の居眠りの中にしか出て来ない事によって「あれは全部夢だったんだよ」とでも言いたげな、弱腰の逃げ道が用意されている。しかし、映画が進むに連れ、その逃げ道は断たれる。何の為に用意したのだろう?)

我クールジャパンの乗り遅れならばこそ(なのだと良いが)

 この点以外にも、本作はオリジナルに対し「並行宇宙で起こっている、後日談」であるとしか規定できないように設定されている。幼少期から父子家庭で、妻や娘や母という多重の女性像を受け入れながら泉が愛する父親は、オリジナルでは映画の冒頭で、彼女と空港ですれ違ったまま事故死(暗殺)するが、本作ではダンディな「叔父」が登場し、「幼少期から両親がいない」泉を父親代わりに育てており、泉の目の前で銃撃を受けて死ぬ。いたずらに長文化しないように省くが、こうした「え?え?」という設定はまだまだある。

 これがいっそのこと「オリジナルの設定だけ借りた、まったく別の作品」「マルチエンディング感覚の換骨奪胎」であれば、安心して脚本の誘導に乗れる。そんな設定の「新シリーズ」「続編」は山ほどある。

 しかし本作は、繰り返すが「並行宇宙で起こっている後日談(の状態)」以外に言いようがない。オリジナルと、特に意味も無く多くの部分を共有し、特に意味も無く、新しいアイデアが盛り込まれているからである。

 この、観客が安心して物語にライディングし、運ばれてゆく力を阻止する負荷が、作品全体を圧迫する。この圧迫感がゲームもやらないしマンガもやらないワタシ個人の経験不足から来るドンくさい無理解。であることを切に祈る。いや、祈らない。総ての観客が圧迫されている事を祈る。総ての登場人物と、同じ様に。

再び、一番悪い=偉いのは誰か?

 でないと、橋本環奈氏は「写真一枚で天使だの1000人に一人だの言われて、映画で動いて見せたらこの程度かよ」という、無慈悲&低能極まりないパンチをノーガードでボコボコに当てられてしまう事になる。「思った通りにならない、というだけで、根拠も考えずストレートに苛立ちを叩きつける」人々の退行的な暴虐さは若き橋本氏の心を折るに十分だろう。被害者は橋本氏だけではない。監督の前田氏も、脚本の高田氏も「素材が生かせない無能である上に、余計な物語が全部滑っている上に、そっちがやりたい事(その最大のものが「卒業」)が、こっちには噛み終わったガム以下の価値しかない上に」と断じられて終わってしまう。「角川映画なんてオワコン(死語)に40周年もヘッタクレもねえ。100周年もこの有様だろ」で終わってしまう。せっかくドワンゴと業務提携したというのに!!

 こうした悲劇の連鎖は、並行宇宙まで設定しないと収拾がつかない。本作はかなりのSF作品で、何が起こってもおかしくないのだ。そう理解しない限り、本作の脚本はほとんどすべてのシーンに、破綻とまでは言わないが、「うううう」という負荷をかける。橋本環奈氏は、重力が地球の5倍ある星で器械体操を強いられているだけかも知れないのに。

「チラシにはっきりと<女子高生は恋に部活に大忙し>って書いてあるのに、恋も部活も一切やってねえじゃねえか(笑)」「フライヤーの裏面は、<女子高生同士のLINEのやりとり>が全面にプッシュされてるけど、劇中LINEなんか一回もやってねえじゃねえか(笑)てか、そもそも友だちいねえし」「どうして、特にSMクラブでもない店に、絞首用のロープがあるんだよ。橋本の苦しむ顔を見せたいだけだろ(笑)」「卒業がテーマなのに、卒業は、ラストに卒業証書を貰うシーンだけ。そこで振り向いて主題歌を歌う。なんだそれ。一番暗黒だった時代のATGやディレカンへのオマージュ?(笑)」「<ひと夏>も<人生でたった一度の高校三年生>の切なさも描けなかったんで、ラストいきなり、完全に無意味な浴衣のカットが出てくる(笑)すげえ真空感。さすが天使の仕業(笑)」

 しかし、こんな事は総て、並行宇宙が設定させる世界観の中では、当たり前にあることだ。とはいえ、腹の底からズシンと来るほどキツイ。脚本、そしてそれを支配する「原作」が設定する負荷に寄る物である事は想像に難くない。

 とまれ、ここまで指摘してすべてのことなど、画面に登場する橋本環奈氏の魅力が大爆発していれば、一発大逆転、誰も気にしない筈だ。

 だがワタシの経験則では「やばい脚本もらっちゃった女優は、どんなに美貌と演技力があっても、魅力は減じてしまう」という定理にも近いものがある。監督も女優も、現場で何やっているか良くわからなくなる可能性が高いからだ。

 『ラストラブ』の伊東美咲は、その極限値を記録することによって、女優生命それ自体にピリオドを打ってしまった。『パラサイト・イヴ』の葉月里緒奈も、 『ラッフルズホテル』 の藤谷美和子も。過去のこうした凄惨な事故の原因を、脚本/原作に求める声は、絶無とは言わないが、余り大きくなかった。しかし、私見では、それほど、エンターテインメントに於ける脚本の力は強い。未知数の女優をグロリアスサイドのロードに乗せるには、まずは脚本であり、次に演出である。『ローマの休日』まで召還せずとも、そもそもオリジナルの『セーラー服と機関銃』には、名匠、田中陽造による脚本の瑞々しさが当時新人女優だった薬師丸ひろ子の瑞々しさと、奇跡的なまでに、がっぷり四つに組んでいる。

 とならば、本作で「一番悪い=一番偉い」のは脚本家の高田亮氏であろうか? まさか。赤川次郎氏である。

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