宮台真司の月刊映画時評 第1回(後編)
宮台真司の『オン・ザ・ハイウェイ』評:ギリシャ悲劇の王道に連なる、86分間の密室劇
凡庸な設定を利用した巻き込み
この映画の大きな特徴は、全てのエピソードが凡庸なこと。何も特別な要素が出て来ません。「出張先で浮気をした」「その女がはらんだ」「家族にバレて奥さんがキレる」「事情を知らない子どもが困惑する」...と本当によくある話。英語で「ジ・オーディナリー・マン」と言いますが、凡庸な男が凡庸な出来事を切り抜けていく。それだけの話。
あまりに凡庸なので、「あるある」的に身につまされます。乗っている車は、カラーリング(スペースグレー)まで含めて僕自身の車と同じBMW X5 E70 5.0i。内装も、Bluetoothで接続したiPhoneの発着信が表示されるダッシュボードのディスプレイも、子細に到るまで完全に同じなので、僕にとってはイヤガラセかと思うほどの時間(笑)。
主人公はグローバルなゼネコンのエリート技術者という設定で、だから高級車に乗っています。ただし、そこは、「86分間の車内での電話のやりとりの間に、ゼネコンをクビになり、かつ幸せな家族も失う」という「一挙に全てが崩壊する」がごとき前後の落差を、際立たせるための設定に過ぎませんから、さして重要なポイントじゃありません。
むしろ大切なのは、車自体より窓の外。イルミネーションからなる「何もかも後方に流れていく風景」と、それによる変性意識状態です。夜のドライヴは人を変性意識状態に導きます。だから夜のドライヴデートが好まれる。変性意識状態の中で「あるある」的に身につまされた観客は、「世界はそもそもそうなっている」と納得させられます。
86分間の密室劇というワンシチュエーションも、主人公と観客を世俗から隔離して、夜のロングドライヴにつきもの変性意識状態に誘うための、仕掛けであることが分かります。主人公からは全てが影絵のように見えてきますが、観客からも全てが影絵のように見えてきます。優先順位が混乱して、あり得ないことあり得るように思えてきます。
ギリシャ悲劇的モチーフの踏襲
選択が織り成す、数々の分岐点からなる系統樹、という意味でのサスペンスが、ほぼ唯一登場するのが、EU最大の超高層ビルに200台のミキサー車が生コンを流し込むという大事業を翌日に控え、主人公が、無理矢理に作業の代理を押しつけた部下に「1センチでも狂えば全てがガラガラと崩れ落ちるぞ!」と脅し上げながら指図するエピソード。
脅し上げが逆目に出てプレッシャーに押しつぶされた部下がどうもアルコールに手を出したらしいことが電話から伝わってきて、主人公が激昂します。そのプレッシャーでますます部下は⋯⋯。この圧倒的なサスペンスが、しかし話の本筋と全く関係ない(笑)。だから「コンクリートの話、関係ねえじゃん」とブチ切れる観客もいることでしょう。
だからこそ観客は、終盤で主人公が運転しながら書類を開くシーンを前に、「おい、頼むから事故なんか起こさないでくれ。そういう映画じゃねえだろ」と祈りながら観るわけです。それで分かるのですが「コンクリートの話、関係ねえじゃん」は監督の狙いです。「そう、そういう映画じゃない、だから何も起こらない」と。何も起こりません。
その意味で、このシナリオ上の穴は、あえてするものです。シナリオ上の穴と言えば、「父親と同じ生き方を繰り返したくない」と思う主人公が、結局は「父親と同じ生き方を繰り返している」というところも、矛盾じゃないかと感じる観客がいるかもしれない。責任を取るという主人公の立派さを描くはずなのに、よく見ると立派じゃないじゃんと。
しかし、これも既に述べたように、あえてするものです。つまり、この映画は、責任を取るという主人公の立派を描いたものでは、全くない。そうでなく、主人公自身が「親子の血は争えない」と語るように、全経験を方向づける先験的な呪いが、経験によって与えられてしまうという逆説。これこそが、この映画が描き出そうとするものです。
むしろ責任を取ろうとする立派な振る舞いを脱臼させてしまう理不尽や不条理こそが問題なのです。その意味で、この映画はギリシャ悲劇、例えばオイディプス劇の王道に連なります。ギリシャ悲劇は〈社会〉が〈世界〉に貫かれていることを描きます。人間次第でどうにでもなりそうな関係が、しかし人智を超えた世の摂理に貫かれている⋯。
ギリシャ悲劇と初期ギリシャ哲学は、「暗黒の四百年」やそれを語り継ぐための紀元前八世紀の叙事詩的モチーフを継承するものであると同時に、同時代のセム族的な超越神信仰=ヤハウエ信仰への、意識的なアンチテーゼです。「理不尽や不条理は神の意思」という合理化を拒絶、「理不尽や不条理はただそこにゴロッとあるだけだ」とします。
その理不尽や不条理は「経験を通じて汐が満ちるように意味に満たされる」ことのないまま、ひたすら人の世を貫きます。むろん、この世を抽象的原理がアプリオリに支配するわけはない(ヤハウェ信仰の全否定)。だが、経験論的に未規定な理不尽や不条理が世を貫いている。つまり、この映画は、合理論を否定しつつ、経験論も否定します。
「車内の86分間で全てを失った主人公に最終的に何が残ったか。それは汐が満ちるようにやがて時が明らかにするだろう」。そう呑気に理解すれば、この映画は経験論的モチーフで一貫しています。しかし、映画を子細に見れば、なぜ最初の選択で退路が断たれたのかという疑問への回答を通じて、呑気な理解を実は完全に遮断しているのです。
その意味で、『Locke』という原題は、素晴らしい罠です。内外の映画批評家たちが、この罠に見事に引っ掛かってしまっています。こうした罠に掛からないためにも、かつてパク・チャヌク監督が僕に語ったように、初期ギリシャの不条理劇たるギリシャ悲劇に通暁しておいたほうが良い。幾度も語ってきたように、教養の試金石になるからです。