杉江松恋の新鋭作家ハンティング 「他人はどこまでいっても他人」を描いた竹中優子のデビュー作『ダンス』
他人は自分と違う人間であり、自分は限られた空間と時間を占めて生きているだけの存在で、決して他の誰かとそれを取り替えることはできない。その当たり前の事実を改めて読者に突き付ける。自分が自分から出ていけないということについての思いは人によってそれぞれ違うだろう。おそらく現代は、自分の領土を守ることに全員が必死になっている時代だ。そこに誰かが入り込むことを警戒し、自分の領土がどのようなものかを他人に知られることも極端に嫌う。それだけで危うく、喪われやすいものとして自分を意識しているからだ。〈私〉は現代を生きる人の典型として書かれている。自分は大事。しかし、非−自分である他人って何なのだろうか。そのことに思いを馳せたくなる瞬間が、『ダンス』を読んでいると必ず到来する。
やがて下村さんとの別れが訪れるのだが、十年以上が経過したときに〈私〉は彼女と再会する。その束の間の邂逅をもって本作の幕は下ろされる。〈私〉の目に、かつて知っていた下村さんのさまざまな姿が再生され、それが現在の「すっと背を伸ばしている」彼女の姿に重なって見える終幕の描写は印象的だ。他人とはそのように、決して本質ではなく、さまざまな場面の非連続体として認識されるものなのである。他人はどこまでいっても他人。それでいい。