芥川賞作家・町屋良平「フィクションは悪いものとして働いていることが多い」 新作『生きる演技』インタビュー

 『1R1分34秒』(新潮社)で2019年に第160回芥川龍之介賞を受賞した作家の町屋良平が、新作『生きる演技』(河出書房新社)を2024年3月14日に上梓した。

 物語の軸を担っているのは、「元・天才子役」の生埼、空気の読めない「炎上系」俳優の笹岡という二人の男子高校生。ともに家族に対する憤りや怒りを抱えている二人は、反目し合いながらもやがて意気投合し、文化祭で戦争をテーマにした演劇を行うことにーー。「日常における演技」「他者に見せる自分」さらには「暴力」「戦争」といったテーマを巻き込みながら、この国を覆う「空気」を描き切った『生きる演技』。自ら「デビューから考えてきたことのすべてを投じました」という町屋に、本作について語ってもらった。(森朋之)

男性の内声を描く

ーー新作『生きる演技』は、日常生活のおける演技からはじまり、戦争や暴力、この国に流れる空気を描いた作品。誰もが一度は意識し、考えたことがあるテーマを言語化してもらえた充実感がありました。

町屋良平(以下、町屋):ありがとうございます。嬉しいです。

ーー町屋さんは2016年に「青が破れる」で文藝賞を受賞し、小説家としてデビュー。以降、かなりのハイペースで作品を重ねています。今回の『生きる演技』に対して「デビューから7年のすべてを投じました」とコメントしていますが、これまでの作家活動を集約させたいという思いは執筆当初からあったのでしょうか?

町屋:それはありました。デビューが「文藝」でしたし、編集部からも「長編をお願いしたいです」というお話を前々からいただいていて。だったらこれまでやってきたことをすべて注ぎ込もうと。これは高橋源一郎さんが仰っていたのですが、“7年”は作家がそれまでの人生で培った全部を出し尽くす年数みたいで。実際『生きる演技』を書き終えて、「終わった……」みたいな気持ちになりました(笑)。小説家としてデビューして、最初にやろうと思っていたことは大体出してしまったと言いますか。

ーー「最初にやろうと思っていたこと」とは?

町屋:男性性の内声、内側の声を書くということですね。かねてより、男性の内声は小説のなかであまりうまく言語化されてこなかった気がしていて。あったとしてもかっこつけていたり、ヒロイックな装飾が付いていたりして、本質的な部分が描かれていなかった。ロマンティシズムや抑圧によって覆い隠されてきたものがあると思っていたし、ジェンダー要素を含めもう少しグラデーショがあっていいものと思っていました。そのモチーフを長く引っ張っていくなかで、さらに突き詰めたのが今回の小説なのかなと。実際、自分がデビューしてからの七年は男性一人称の小説が不作の時期だったと思うんです。別に分けて考える必要はもはやないのでしょうが、女性が書く男性一人称の作品のほうが実りが多かった印象です。ただ、それも少しずつ変わってきていると思います。「すばる文学賞」を取った大田ステファニー歓人さんの作品『みどりいせき』(集英社)が男性一人称の傑作で、ここからまた増えていくのかもしれない。

ーー『生きる演技』もそうですが、町屋さんの作品は人称の設定も特徴的ですよね。一人称、三人称が混ざっているといいますか。

町屋:そこは探り探りですね。三人称は自分にとってかなり大変で、なるべく自分が使いやすい文体を考えているなかで、ちょっと不思議な感じになっているという。内声を言語化しようとすれば、本来は一人ひとり違う言語になるはずなんです。それをそのまま外に出すのは、頑張ればできることにはできるんですが、小説の場合、それを一般化する作業が必要になるんですよ。

ーーある程度わかりやすくする、と?

町屋:そうですね。生の内声をそのまま外に出したら、おそらく他者はまったく理解できない。そこで一般化してバランスを取り、他者がわかるような形に加工するわけですが、自分としてはそこに抗いたい気持ちもあるんですよね。

ーーなるほど。今回の小説はタイトルにもあるように、日常における演技が大きな主題になっています。

町屋:人が人といるときは基本的に演技をしているものだと思います。私自身も、極端に言うと人の顔色を伺い続けて生きてきたところがあるし、おそらく他の人もそうでしょう。演技を小説として考えるために登場人物を俳優にしました。自分自身を社会に合わせてしまう場合もあるし、むしろ自ら合わせたくなるところもある。それは一体、どういうことなのだろう?と考えたのが出発点です。

ーー演技しないで生きている人は、おそらくいないでしょうからね。それぞれの役割を演じているというか。

町屋:たとえばすごくイヤな上司がいるとして、「今日はあの人のペースには乗らないぞ」つまり「演じないぞ」と思っていても、どうしても引っ張られてしまう。自分の経験上、パワーが強い人が1人いれば、その場にいる全員が演じることを強いられてしまうと思うんです。学校の先生もそうですよね。学級崩壊になれば、それぞれ我を出すのかもしれないけど。

ーー『生きる演技』では“場”という言葉が何度も登場します。“場”の支配力が演技を誘発するというか……。

町屋:いちばん大きいのは人間関係などの環境だと思うんですが、“その場がそうさせる”ということもあるのかなと。あまり意識してない部分で、実は強い影響を受けているというか。人間の一生よりも場のほうが長く続くし、そこに蓄積されたものが人に及ぼすものはかなりあると思います。

ーー町屋さんご自身も“場”の力を意識しながら過ごしてきたのでしょうか?

町屋:私は気づくのが遅いタイプで(笑)、学生時代はそこまで意識してなかったんです。スクールカーストみたいなものもわかってなかったし、「朝が弱い」「体調が悪い」というファクターによって青春もまったく謳歌していなくて。当時みんなが感じていた抑圧にも気づいてなかったと思います。「クラスのなかにイケてるグループがいるな」くらいはわかってましたけどね。ただ、高校を卒業してすぐにバイトを始めたんですが、そのときは解放感を感じました。社会のほうがラクと言いますか。

ーーちなみに大学に進学しなかったのも、学校という場から離れたいと思ったからなんですか?

町屋:いや、特に何も考えていなかったですね。高校3年のときに周りの人たちがいきなり勉強しはじめて、すごくビックリしたんです。進学校だからよく考えれば当たり前なんですけど、私は「みんな、ずっとチャランポランだったのにどうして?」と(笑)。つまり自分はわかっていないというか、理解するのに時間がかかるんでしょうね。他の人が普通に受け取っていること、理解していることがわかっていなくて、後々「なるほど、そういうことだったんですね」と。だからこそ、このタイミングでようやく「演技」という主題が出てきたのかもしれないです。

ーー周りの人を見ていて、すごく自然に「演技」しているように感じることもありますよね。

町屋:そうですね。一方で、性格がいい人はオンとオフの差が少ないとか、ブレないことがかっこいいという感覚も、世の中には強くあるような気がします。ちょっとブレると「以前と言っていることが違う」と「論破」されてしまうから。自分としてはブレたほうがいいと思っているんですけどね。持論なんてどんどんひっくり返していいと思います。

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