小説・映画・漫画・アニメ・ゲーム――知りすぎた世代の作家が紡いだ物語 『ガーンズバック変換』のパスティーシュ

 中国語で書かれたミステリのことを〝華文ミステリ〟という。その華文ミステリの書き手である陸秋槎が、本格的にSFを執筆する契機となったのが、2019年に刊行された、SFマガジン編集部編の百合SFアンソロジー『アステリズムに花束を』である。2018年にハヤカワ・ポケット・ミステリの一冊として、前漢時代の中国を舞台にした本格ミステリ『元年春之祭』を刊行した作者は、同年の末、本のプロモーションのために訪れた早川書房の入り口で、「SFマガジン」編集部の溝口力丸から声をかけられる。そのときの話が縁になり、「色のない緑」を書き下ろしたのである。

 本書『ガーンズバック変換』は、その「色のない緑」を始め、SF短篇八作が収録されている。冒頭の「サンクチュアリ」は、二冊続けて売り上げが爆死したファンタジー作家の〝わたし〟が、人気ファンタジー・シリーズのゴーストライターを務めることになる。頭皮をピンクの液体に数時間浸す〝液浸療法〟により、器質的なレベルで他人の苦痛から快感を得られなくするという、SFのアイデアが使われているが、物語のガジェットに過ぎない。読みどころは、揺れ動く主人公を通じて見えてくる、創作の根源に必要なものだろう。

 作者が「あとがき」で、「初のSF短篇集とはいっても、収録作すべてがガチガチのSFというわけではない」といっているが、「物語の歌い手」や「三つの演奏会用練習曲」のSF味はきわめて薄い。しかし、素晴らしい作品だ。「物語の歌い手」の舞台は、中世のフランス。吟遊詩人を追って、自らも吟遊詩人になった娘の放浪譚とでもいえばいいだろうか。幾つかのエピソードを経て、吟遊詩人の秘密結社の会員になった娘は、一生に一度だけ見ることのできる「聖典」に触発され、優れた物語を創るのだが……。まるでフランスの古典文学のような文章で綴られるのは、優れた物語を思いついたときの喜びと、その喜びが二度と訪れないことの絶望である。これが創作の本質だとしたら、物語を創るとは、何と厳しい営為かと思わざるを得ない。

 「三つの演奏会用練習曲」は、詩や、神話の口承――つまりは物語にまつわる、三つの物語が披露されている。そこにあるのは、物語の形骸化であり、物語にゆがめられた歴史であり、物語ることの意味への問いかけである。ここまで読んできて分かったが、作者は物語そのものに、強いこだわりを持っているようだ。

 では、そのこだわりはどこからきているのだろう。ヒントになるのは、作者の「あとがき」にある、「いわゆるSFの醍醐味とは、パスティーシュではないかと思う。既存の技術と理論、神話と民俗。そして歴史と社会制度に対するパスティーシュこそSFだ。もちろん先行作品に対するパスティーシュも面白い。本書に収録されている作品群は、こういう個人的なSF観で書いたものだ」という一文である。さらに溝口力丸の解説にある「ミステリにせよSF・ファンタジーにせよ、作家・陸秋槎の特徴として、膨大な先行作品のインプットから生まれる博識な引用と、ジャンルの文脈や勘所を押さえたうえでそれを乗り越えていく筆力が挙げられると思います」という一文を重ね合わせたい。そう、陸秋槎は、知りすぎた世代の作家なのである。

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