今井寿:“異彩”を放つBUCK∞TICKのトリックスター、革新的かつポップな独創性 「今井智子 ロックスターと過ごした記憶」Vol.11

ロックスターと過ごした記憶:今井寿

YMO、RCサクセション……唯一無二のギタリストを形作ったルーツ

 饒舌なタイプではないので、最近はそうでもないがデビュー当時はインタビューに苦労した。それは櫻井も似たようなものだったが、若いバンドらしい斜に構えた姿勢のせいだけではなく、その頃は連夜飲み歩いて二日酔いのまま取材現場に来るのが常だったため、面倒臭い質問に答える気などしなかったらしい。遅刻して取材の場に来て、いざ始めようとしたら「吐いてくる」と席を立たれたこともある。唖然としながらも憎めない彼のキャラに苦笑いするしかなかったし、彼の楽曲やサウンドが発する魅力は、今に至るまで彼への興味を掻き立てている。それはむしろ時が経つほどに高まっているかもしれない。

 最初にBUCK-TICKのライブを観た時に、普通じゃないことをやりたいのだろうと感じたのは今井のギターによるところが大きかったと思う。どんなことがやりたいのかと聞くと「もっと変なことがしたい」「グチャグチャな音を出したい」といったことを、何度も口にしていた覚えがある。感覚的な説明だけれど、それ以外表現のしようがなかったのだろう。彼がユニークなギタリストになった足跡を見てみよう。

「小学校の頃、家にオジサンの持ち物だったガットギターがあったんですよ。オレはそれを持って弾くマネをしてたんだけど、その時点で左右逆に抱えてた。なんか、右手でネックを握った感覚がすごく身体に馴染んでね。で、ズーッとあとになって、高2の頃かな? エレキを買おうと思った時も左用を入手してしまったという。人から“それって左用だよ”とか言われてたんだけど、“どっちにしても両手使って弾くんだからいいじゃない”って言って(笑)」(※1)

 人並みに沢田研二やピンク・レディーを聴く程度だったが、中学3年でYMO(Yellow Magic Orchestra)を聴き衝撃を受けた。

「それまでは沢田研二さんぐらいしかピンとくるものがなかったんですよ。友達が聴いてる音楽に全然興味がわかなくて。それがYMOで急に目覚めちゃって『テクノポリス』とか聴きまくって。あと土屋昌巳さんの一風堂とかP-MODELとか、洋楽だとクラフトワークとかOMDなんかに手を伸ばしていった」(※2)」

 BUCK-TICKが『狂った太陽』(1991年)をリリースした頃、高橋幸宏と今井の対談取材を担当したのだが、緊張してほとんど話せない今井を前に高橋も困惑気味で、なかなかに緊張感漂う現場だった。苦労して構成した結果がこんな感じだった(※3)。

今井:『BGM』(1981年)は高校の合格発表の時で、それを見に行って、その帰りに嬉しくて買ったんです。

高橋:合格発表の時に嬉しい時にあれ聴いてたの? あのアルバム暗いんだよね(笑)。それまで100万枚とか売れてたのが30万枚か40万枚ですから。こういうのを無理矢理若い子に聴かせて、そういうのに影響される人たちが出てくるのを待とうとか言ってたの。

今井:そういうものに影響されてしまったんですね。影響されてよかったです。

 音楽を聴くだけにとどまらずバンドに興味を持ったきっかけはRCサクセションだった。1980年頃、YMOとRCサクセションは全く違うタイプのバンドながら、ユースカルチャーの同じコーナーにあるような受け取られ方をしていたところがある。それがあったから、坂本龍一と忌野清志郎が共演した「い・け・な・いルージュマジック」が生まれたのだ。

「RCサクセションを何かのきっかけで聴く機会があって、バンドというものに興味が出て来て。バンドってかっこいいと思いました。ギターがどうのっていうんじゃなくて、バンドをやりたいなって漠然と思ってました。まだ楽器も持ってないですけど」(※4)

櫻井敦司とのソングライティングの確立、BUCK-TICKの快進撃

 高校生になると、駅前のタバコ屋だった今井の家が仲間の溜まり場になった。四畳半に10人ぐらいたむろしていたこともあるという仲間の中からBUCK-TICKが生まれる。櫻井、星野英彦、樋口豊とザ・スターリンのコピーバンドを組んだ。数曲コピーしただけでオリジナル曲を作り始めたのは、アマチュアバンドにありがちな「コピーは難しいが、できることで作るオリジナルの方が簡単」というチョイスだったのではなかろうか。やがて卒業して上京しBUCK-TICKとして活動するようになる。ドラムだった櫻井がボーカルになり、インディーズレーベルからのリリースを経て1987年にメジャーデビューした。

BUCK∞TICK アー写

「自信があるくせに、ものすごい消極的というか……自分が影響受けたもの……今だったらノイズとかガンガン演るけど、その時はかなり抑えてたんで。『演っちゃダメなのかな?』っていう。で、デビューが決まって、最初の頃のインタビューでも『影響を受けたミュージシャンは?』って聞かれた時に、今だったら普通にYMOって言えるけど、その時は隠したり(笑)……変な思い込みがありました」(2000年7月の取材時メモより)

 初期の作品は今井が詞曲ともに書いていた。同郷の先輩バンド BOØWYの影響を感じさせるビートパンク系の曲が多い。『SEVENTH HEAVEN』(1988年)から櫻井が作詞を手掛けるようになったのは、人気の上昇に伴い制作時間が限られたことと、櫻井自身が“暗さ”というテーマを抱いて自分の言葉で歌いたいという気持ちを持ったことから作詞を申し出た。今井も「あっちゃん(櫻井)が自分の言葉で歌ったほうがいいと思う」と言っていた覚えがある。2人によるソングライティングのスタイルは『TABOO』(1989年)で確立されたと言っていい。そこに星野の曲が加わることで絶妙なバランスが生まれていく。初のイギリス録音は現地スタッフとの意思の疎通が十分にできず不満も残ったようだが、作品はバンドを大きな成功へと導いた。今井の不祥事によりツアー中止を迎えるも、BUCK-TICKは心機一転、意欲的なアルバム『惡の華』(1990年)を発表する。今井はこの作品で自分の思うサウンドや楽曲への具体的なイメージを固めたようだ。続く『狂った太陽』(1991年)が彼のスイッチをオンにしたのは、今も彼らを手掛けるエンジニア 比留間整の存在が大きい。

BUCK-TICK / 「JUST ONE MORE KISS」ミュージックビデオ
BUCK-TICK / 「惡の華」ミュージックビデオ
BUCK-TICK / 「スピード」ミュージックビデオ

「比留間さんと話しているうちに、例えばライブで再現できないものはダメとなんとなく思ってて。でも、レコーディングが進むうちに、“レコーディングでできること”っていうのはいっぱいあるなっていう……あ、いいんだと思って、そっからもうガーッと行くようになった」(2000年7月の取材時メモより)

 レコーディングは青山のビクタースタジオで約2カ月行われたが、その大半は今井のギターダビングに費やされた。ギターを抱えてスタジオにこもる今井を他のメンバーはじっと待つしかなく、終盤はツアーリハとスケジュールが重なるという過酷な状態になったが、それでも彼らの雰囲気は悪くなかった記憶がある。母の死を乗り越えようとする櫻井を支えながら、自分たちのやりたいことができているという実感があったのだろう。これ以後は作品ごとに新たな試みを進める今井がバンドのサウンドの牽引力となっていく。それに応えるように深みのある歌詞を書き、多彩に歌う櫻井とのコンビネーションが磨かれていった。基本的には櫻井に作詞を委ねながら、時折自ら詞を書き櫻井と掛け合いの形で歌うという新しいスタイルも、いつしかバンドの外せない要素になっていった。

 充実していくBUCK-TICKだが、5人での演奏を前提に組み立てていくことでは収まり切れないものがあったのか、今井は当時親しかったSOFT BALLETの藤井麻輝とインダストリアルロックユニット SCHAFTで活動。そこでゲストに迎えたレイモンド・ワッツ(PIG)やサシャ・コニエツコ(KMFDM)と櫻井をボーカルに据えたSCHWEINを2001年に組んだ。さらに2004年にはKiyoshi、岡崎達成と“ロケン”をやるバンド Lucyを結成。2026年には20年ぶりに活動再開し、3rdアルバム『ROCKAROLLICA III』を発表、ツアーも行った。3人でボーカルも取りながら軽快にパフォーマンスするLucyのライブを観ていると、櫻井の逝去を受けてすぐにBUCK-TICKの継続を宣言したのは、この経験があったからではないかと思う。今では今井と並びボーカルを取る星野はBUCK-TICKでコーラスを担当する曲も多かったし、2007年にはdropz名義でソロ作も出している。ダブルボーカルのバンドをイメージすることは難しくなかったことだろう。

 BUCK-TICKで今井がコーラスにとどまらない歌を聴かせるようになったのは、「Madman Blues -ミナシ児ノ憂鬱-」(『darker than darkness -style 93-』/1993年)からだ。テクノとヒップホップが融合したような「相変わらずの「アレ」のカタマリがのさばる反吐の底の吹き溜まり」(『Six/Nine』収録/1995年)で今井がメインボーカルを担当し落ち着いたラップ調の歌を聴かせ、叫ぶような歌い方から抑制の効いた歌へと表現を広げた。「MY FUCKIN' VALENTINE」(『SEXY STREAM LINER』収録/1997年)では櫻井と掛け合いで歌い、「Sid Vicious ON THE BEACH」(『Mona Lisa OVERDRIVE』収録/2003年)ではザ・スターリンの歌詞を引用して敬愛を示した。歌う曲が増えるにつれてボーカリストとしての成長も窺うことができた。

目と耳で魅了する今井寿ならではの“ポップ”

 冒頭でも書いたように酒好きで知られるが、酒席を盛り上げるようなタイプではない。でも不思議なことに彼の周囲にはいつもバンドのメンバーだけでなく飲み友達がいて、そうした仲間の話を聞きながらグラスを重ねるのが常。明け方まで開いている店をハシゴして最後は自分の家へと仲間を誘い、ともすればそのまま何日も一緒に飲み続けたとか。高校時代に彼の家に仲間が集まったのもそんな感じだったかと想像するが、寂しがり屋なのは確かなようだ。それは一人で音楽と対峙する楽曲制作の反動かもしれない。BUCK-TICKはセッションで楽曲制作をすることはまずなく、今井と星野が作ってきた楽曲をバンドで完成させていく。自宅でパソコンなどを使って楽曲を作ることもなかった時代、スタジオでギターを抱えて何時間も椅子に座っていた彼の姿を思い出す。何時間どころか何日も一つのギターフレーズにこだわり続け、それができ上がるまでスタジオで待ち続けるメンバーのために、TVゲームをやるためのセットが何台も持ち込まれていたものだ。

 メロディやアレンジに強いこだわりを持ち、前衛には走らずポップミュージックとして成立させリスナーの耳と心を捉えていく絶妙なバランス感覚が今井の持ち味と言っていいだろう。そんなことを聞いたことがある。

「ああ……。“ポップ”っていうのはすごく意識してますけど。ただ、“ポップ”って言葉にすると……普通の音楽ファンの人が思う“綺麗なメロディ”とかそういうことではなくて、すごくノイジーでうるさい曲でも、すごいポップなものになるって……俺は常々思ってるところがあって。そこが、どっか気持ち悪いっていうか(苦笑)、独特なもんになってんだろうなと思う……(中略)ギターの音、普通はここで使わねえよって思うくらい抜けの悪い死んでるような音とかでも、『コレがいいんだよ!』っていう。そういうところにすごくカッコよさを感じますけど」(2000年8月の取材時メモより)

BUCK∞TICK 今井寿

 一方、ステージに立てば、見るたびに髪の色が変わっていたりファッショナブルな衣装をまとっていたり、さらには様々な形のギターを持ちシンセを鳴らしテルミンを操作して曲を盛り上げる。スタジオでのギターフレーズへの粘着的なこだわりとステージで見せる軽やかさや潔さは真逆のような気もするが、どちらも今井寿という人間の持ち味だ。2021年に大腿骨転子部骨折を患い、回復期にはステッキを手にステージに立ったが、それすら新たな小道具として活用しているように見えた。演奏そのものよりも、ステージパフォーマンスとしてどれほど魅せるかに重きを置いているような彼は、バンドのトリックスターだ。控えめな星野とバランスを取りながら、櫻井の醸し出すデカダンスなムードに少しだけ違う色を加えることで引き立てたり、同調して深みを増したりと、今井の存在はステージで実に有機的に作用する。楽器の演奏にとどまらない表現の場としてライブを捉えるのはアーティストとして当然のことだが、そこにも彼ならではのアイデアを常に詰め込んでいる。あまり話したことはないが、絵画や映画など視覚的なアートに少なからぬ関心を持っているだろうことは想像に難くない。1990年頃の取材で関心のある表現として、まだほとんど知られていなかった勅使川原三郎の名を挙げたことがあった。

 2023年10月19日、櫻井が急逝しBUCK-TICKは悲しみに包まれた。だが今井はその5日後に、櫻井への深い哀悼とともにBUCK-TICKの継続をSNSで宣言した(※5)。「永遠に5人でバンドをやれると思っていました。でも、そんなコトは、『不可能』ということも最初から、わかっていました。いつか、こんな日が来ることもわかっていました。ずっと、あっちゃんの横でギターを弾いていたかった。ま、でもね。続けるからね♪ 大丈夫」。そしてBUCK-TICKは、櫻井の映像と歌とともに年末恒例の日本武道館公演を行った。終演後には翌年の同会場での公演を告知、その公演に先駆けて4人体制での新作『スブロサ SUBROSA』を発表した。バンドのロゴも「BUCK∞TICK」と新しくし、今井と星野がボーカルを取るスタイルでの新作が、悲しみや寂しさを振り切って進む新たな歩みの第一歩となった。BUCK∞TICKは4人になったが、4人の中には今もこれからも櫻井がいるのだと思う。櫻井とともに数多くの楽曲を作ってきた今井にとって、櫻井不在は何よりも辛く寂しいに違いないが、今井は進み続けることでその気持ちと戦っているように思う。BUCK-TICKというバンドは運命共同体かと聞いた時、こんなふうに彼は答えた。

「うん、自然にそうなってるし。ま、“運命共同体”って言うとすごく重いニュアンスありますけど(笑)。でもまあ、普通にカッコいいロックバンドでありたいなっていう。なんかもう、ここまで来ると……そんな『長いなあ』とも思ってないんだけど、辞める理由というか解散する理由もまったくないし……さらっと『みんな集まったらすごいよ』っていうような感じではありたい」(2000年8月の取材時メモより)

 この時と今とでは、バンドの状況は大きく変わってしまったけれど、彼の中でバンドへの想いは変わっていないに違いない。

BUCK-TICK / 雷神 風神 - レゾナンス MUSIC VIDEO

※1、2、4:『BUCK-TICK GUITAR ARCHIVES 1987-2012』
※3:『ROCK'N ROLL NEWSMAKER』1990年7月号
※5:https://www.instagram.com/p/CyxUmQrJuhs

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