きゃりーぱみゅぱみゅ×アソビシステム代表 中川悠介 対談 “今”の礎を築いた二人三脚での挑戦の日々を語る

きゃりー×アソビシステム代表 中川 対談

 アソビシステムが主催するミュージック&カルチャーフェス『ASOBISYSTEM 18th Anniversary ASOBIEXPO 2025』が、2025年7月20日に幕張メッセ 国際展示場 展示ホール 9~11にて開催される。

 これに伴いリアルサウンドでは、本イベントにて出産後初のライブ復帰となるきゃりーぱみゅぱみゅの対談連載を企画。新しい学校のリーダーズ SUZUKA&MIZYU、FRUITS ZIPPER 鎮西寿々歌&仲川瑠夏&真中まなに続き、最終回となる本稿では、アソビシステム株式会社 代表取締役であり、きゃりーぱみゅぱみゅの生みの親・中川悠介を招いた貴重な対談が実現した。

 服飾の専門学校を目指していた少女が、きゃりーぱみゅぱみゅとしての人生を歩み出した理由、過酷なワールドツアーの珍道中、数多の思い出の中でも忘れられない瞬間など、幅広いテーマで語り合ってもらった。10代の少女が世界で戦い、結婚し、母になるまで、そんな10数年にわたる時間が生んだ、言葉では表せない、ふたりの特別な絆が見えてきた。(編集部)

「きゃりー自身の個性が軸」――時代に選ばれたスターの誕生前夜

きゃりーぱみゅぱみゅ×アソビシステム代表 中川悠介 対談

――今年で設立18周年を迎えるアソビシステム。その歴史において、きゃりーぱみゅぱみゅさんの存在はとても大きなものだと思います。中川さんがきゃりーさんと出会った当初の印象はどんなものでしたか?

中川悠介(以下、中川):出会った当初の印象は、とにかくマジメな子だなと。

きゃりーぱみゅぱみゅ(以下、きゃりー):えー! そうなんだ。

中川:当時読者モデルはまだ職業になっていなかったので少しルーズな子もいたりして(笑)。でもきゃりーは時間をちゃんと守るし、ちゃんと返事も返ってくるんですよ。

きゃりー:当時はまだLINEもなくてメールでしたけど、確かにすぐ返信してました。やっぱりお仕事はたくさんの人が動いてくれているので、なるべく早く返信したほうが良いかと思って。今でもそういうスタンスです。でも確かに周りにはルーズな子も多かったかも。現場に来ないとか普通にありましたもんね(笑)。

中川:ステージに立つ時間に、「今、駅に着きました」みたいな(笑)。でもきゃりーはすごくちゃんとしてた。一度、ラジオで遅刻したときは土下座してましたから。

きゃりー:ありましたね! 初期の頃、まだ実家に住んでいるときにめちゃめちゃ遅れてしまったことがあって。そのときはすぐさま土下座しました(笑)。

――そんなマジメなきゃりーさんは2011年にメジャーデビューしました。きゃりーさんをアーティストの道に導いたのにはどんな思いがあったんでしょう?

中川:僕はずっと原宿のアイコンを作りたいと思っていたんですよ。当時はアイドル戦国時代でしたけど、僕らの周りには青文字系の読者モデルの子がたくさんいたので、そういう子たちの中からスターを作りたいなと。そこできゃりーに声をかけました。同じ時期に中田ヤスタカと出会ったことも大きかったと思いますね。

きゃりー:当時DJとして出演していたイベントで中田さんと出会って、そこで音楽活動をやってみないかという話になったんですけど、もうドッキリかと思いましたよね(笑)。それくらい私にとっては夢のような出来事で。私は中田さんが手がけたCAPSULEやPerfume、MEGさんの楽曲を高校生の頃からずっと好きで聴いていたので、このチャンスは逃せないと思い、「絶対やります! お願いします!」って気持ちでした(笑)。

中川:原宿という街やファッションが好きという大前提がありつつも、きゃりーには「世の中に出ていくんだ」という強い意志を感じていたんですよね。当時はまだ読者モデルが職業になる前だったので、読者モデルを卒業した後は美容師になったり、アパレルを始める子がいたりといろいろでしたけど、きゃりーには歌を職業にしていくことにすごく向いているイメージがあったんです。

きゃりーぱみゅぱみゅ×アソビシステム代表 中川悠介 対談

きゃりー:へぇ。そんなことを考えてくれていたんだ。今、思い出しましたけど、当時の私は服飾の学校に行こうと思っていて、願書も出していたんですよ。そんなタイミングでアーミーさんからお話をいただいたんです。「1年間だけ時間をくれないか。1年だけ音楽の活動をやってみて、“違うな”とか“面白くないな”と思ったら、そのときは服飾の道に進んでいいから」って言われて。

中川:願書を出した直後だったんで、ご両親に説明しに行ったんですよね。「もし音楽の道がダメだったら、うちが責任を持って服飾の学校に進学させますので」と、吉祥寺のPARCOでお話させてもらって。

きゃりー:そうでしたね。気づけば、そこから14年。その間、音楽をやめて服飾の学校に通いたいなんて1ミリも思うことはなかったです(笑)。それくらい楽しい時間でした。自分の好きなお洋服を作っていただいたりとか、ファッションについてやりたかったことはきゃりーぱみゅぱみゅの活動を通して実現できてますしね。

――きゃりーさんのデビューにあたっては、アーティスト性や活動の方向性などに関してどんなイメージを持たれていましたか?

中川:きゃりーがデビューした2011年には東日本大震災があったりして、世の中が元気を欲しているタイミングでもあったと思うんです。そこに、きゃりーが元々持っているパワーが合致するんじゃないかという思いはありましたね。そのパワーは、中田ヤスタカの音楽や増田セバスチャン、当時のスタイリストだった飯嶋(久美子)さん、MVを撮ってくれた田向(潤)さんたちのクリエイティブによって、より引っ張り上げられていく感覚もありましたし。大人たちが作ったアイドルではなく、ちゃんときゃりー自身の個性が軸になって世界観を創り出していくことができる、そんなイメージを持っていたと思います。

きゃりー:私は中高生のときに父の影響でグウェン・ステファニーとかケイティ・ペリー、レディー・ガガのことを知って。「すごくステキだな。かっこいいし、おもしろいな」とずっと思っていたんですよ。なので、きゃりーぱみゅぱみゅとしてデビューすることが決まったときには、自分が憧れたアーティストが描いていた幻想的で夢の中のような世界観を日常の中で表現したいなと思ったんです。アーミーさんがおっしゃったように、そこにはいろいろなクリエイターの方々のアイデアもたくさん詰まっていて。お話をさせていただく中で、きゃりーぱみゅぱみゅとしての方向性がどんどん固まっていった気がしますね。

 

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