立花ハジメ×野宮真貴×高木完、PLASTICSが先駆した時代とカルチャー 「日本におけるSex Pistolsみたいな存在だった」

「YMOとPLASTICSの決定的な違いはストリート感だった」(立花)

――PLASTICS解散後、1982年に立花ハジメさんは『H』でソロアーティストとしてデビュー。お二人はどう受けとめられましたか?
野宮:PLASTICSは世界に誇れるオリジナリティのあるバンドだったから、解散は残念でしたけど、ハジメさんがギターからサックスに持ち替えてソロ活動を始めたのはすごく新鮮でしたね。
立花:僕の『H』と中西やチカが始めたMELONを聴き比べると、なぜPLASTICSが終わったのか納得できると思うんです。Pちゃんではイギリスのアイランド・レコードからアルバムをリリースすることができたし、The B-52'sやTalking Headsとも海外ツアーをした。その後はそれぞれが新たな音楽を模索し始めたということです。
高木:ハジメさんがサックスに持ち替えて、インストの曲を始めたのは僕も驚いたけど、ポストパンクの時代になりつつあったとき、ハジメさんの音楽が一番衝撃的だったかもしれない。
立花:LAでセルマー(Henri Selmer Paris)のサックスを買って、練習して、その半年後にはレコーディングを始めたからね。
野宮:また、新しいカッコイイことを追求していくんだなと思ったし、ハジメさん自作のオリジナル楽器「アルプス」シリーズやアートワークの自由な発想も他のミュージシャンにはないものでしたね。
高木:僕はハジメさんのデビュー前からライブを観たりしていたから、ハジメさんの変貌は少しずつ知ってはいたんですよ。
野宮:完ちゃんは、そのときは東京ブラボー?
高木:ハジメさんのお披露目ライブにブラボー小松がいた記憶があるから東京ブラボーを始めた頃かな。
野宮:小松くんはピチカート・ファイヴの海外ツアーのメンバーで、ツアーではグルーピーに追いかけられるくらいモテモテでした(笑)。でも、ハジメさんもワールドツアーでは……?
立花:いやいや、そういうのはまったくなかった(笑)。
高木:でも、今回の『hajimeht』に収録されたライブ音源の「THE GIRL FROM IPANEMA(イパネマの娘)」を聴くと、女の子たちの歓声がスゴいじゃないですか?
立花:あの曲は、「HAPPY」の12インチに収録されていて、途中に入る語りが自分でも気に入っているから今回のベストに入れたかったんだよね。
高木:音楽的にはすごく先鋭的なことをやっているにも関わらず、女の子たちが歓声を上げてしまうことがハジメさんの人気を物語っている。
野宮:とにかく、ハジメさん=カッコイイというイメージでしたよね。
高木:当時はYMO人気という側面もあったかもしれないけど、ハジメさんのカッコよさは音楽も含めてちょっと別格だったんだよね。
――YMOが大ブレイクした後の1982年に細野晴臣さんと高橋幸宏さんが起ち上げたYENレーベルからハジメさんはデビューしましたが、YMOとの交流はいつ頃から?
立花:幸宏との出会いは、僕がWORKSHOP MU!!というデザイン集団でアシスタントをしていた頃。僕の師匠がサディスティック・ミカ・バンドの1stアルバムのジャケットを手がけることになって、その撮影のお手伝いをしたのが“青の時代”の僕です。
野宮:PLASTICSより前なんですね。
立花:そう。でも、僕はまだ長髪にGパンのアシスタントだったから幸宏と話すこともなかった。幸宏やYMOと近しくなったのはPLASTICSになってからですね。YENレーベルに誘ってくれたのも幸宏と細野さんだし、教授(坂本龍一)のB-2 Unitsというバンドのメンバーは、僕の『H』バンドとほとんど同じだった。
高木:1980年頃はファンの間ではYMO派とPLASTICS派がいて、僕はPLASTICS派だったけど、同時代に活躍したバンド同士が交流があったのは当然といえば当然ですよね。
――1981年のYMO『ウィンター・ライヴ1981』のツアーファイナルが開催された新宿のディスコ、ツバキハウスにもハジメさんはゲスト参加していますね。
高木:僕もツバキハウスに行ったんだけど、ギュウギュウ詰めで観られなかった。そのときは、ハジメさんはギター? サックス?
立花:サックスだった。その頃はもう最初のソロアルバムが動き始めていたんだと思う。ツバキハウスでYMOは貴重だったね。
野宮:私もツバキハウスにはよく遊びに行っていて、そこで目立ちたがり屋の面白い人たちにたくさん出会ったし、PLASTICSやThe B-52'sはディスコでもよくかかっていました。
高木:1981年のYMOといえば、『BGM』と『テクノデリック』を出して、音楽的にもシリアスになっていった時期でしたね。
立花:そうだね。今、思えば、YMOとPLASTICSの決定的な違いはストリート感だったと思うんだ。
野宮:確かに。私が惹かれたのもそこだったと思う。
高木:YMOは3人とも非常に優れたミュージシャンだったし、教授のようなアカデミックな資質のあるメンバーもいて、そこが僕らには敷居が高い感じがあったけど、PLASTICSは音楽もファッションもポップに響いた。
立花:その感覚は今に至るまですごく大事なところなんだ。当時はまだストリート感とは言っていなかったけど、それはお金では手に入れられるものじゃないんだよね。
高木:なるほど。ストリート感はキラーワードですね。
野宮:ハジメさんはいわゆるパンクファッションではなかったけれど、髪をカラフルに染めていてそれがまたカッコよかったんですよ。
立花:それもDIYというか、ストリート感なんだよね。
高木:ハジメさんのソロを聴いたとき、今まで聴いたことがないタイプの音楽なのに取っつきにくいと思わなかったのもその辺りに秘密があるのかも。
立花:僕がサックスを始めて半年でアルバムをレコーディングしたのもそう。ヘタウマの面白さを極めたらどうなるのかと思ったから。
高木:その発想がやっぱりポップですよね。ただし、ハジメさん独自のセンスや個性があってこそではあるけれど。
野宮:やっぱり、ニューウェイヴの楽しさや新しさって、アートやファッションと密接だったことが大きかったですね。ハジメさんはその先頭を走っていた。私はニューウェイヴの前はグラムロックが好きでしたが、デヴィッド・ボウイよりT・レックスのマーク・ボランの方がストリート感があった気がする。
立花:僕もそれはよく分かる。デヴィッド・ボウイは山本寛斎さんのコスチュームだったけど、マーク・ボランはGRANNY TAKES A TRIP とか当時のロンドンのストリートブランドなんかを着こなしていたから。
高木:ハジメさんと真貴ちゃんはグラム通過世代ですよね。僕はグラムには間に合わず、パンクから入ったので、ロンドンのファッションもセディショナリーズからだけど。
立花:完ちゃんや(藤原)ヒロシはそうだよね。
野宮:そういえば、ハジメさんはロンドンブーツは履いていましたか?
立花:ロンドンブーツはロンドンに留学していた頃に履いていたよ。1973年のロンドンはグラム全盛期で、刺激的なファッションの店がたくさんあって、学生の身分では高くて買えなかったから、今でもeBAYで探したりする。
高木:ハジメさんはロンドンに渡航するとき、デヴィッド・ボウイと同じ船に乗って行ったんですよね?
立花:デヴィッド・ボウイが初来日したときの帰りの船がたまたま一緒だったんだ。僕はコンサートを観たばかりだったから、「ミック・ロンソン、最高ですよね!」とか興奮して話しかけたりしたけど、ボウイが船の中でギターの弾き語りで歌っていても、他の乗客はまったく彼に気がついていなかった。
野宮:信じられないエピソード!
立花:ロンドンではBIBAのレストランでNew York Dollsのライブも観たよ。
野宮:えーっ! BIBAもNew York Dollsも大好きだから羨ましい。
高木:そのライブにブライアン・イーノもいたんだって。アメリカではデビュー前のDEVOも観ているんですよね。
野宮:ハジメさんはロック伝説の生き証人ですね。
立花:DEVOを観たのは1977年のLA。すごく刺激を受けて、PLASTICSにも影響を与えたんだけど、その後、ソロになってからもDEVOのマーク・マザーズボーとはり交流が続いたんですよ。
高木:マークはハジメさんのアルバム『TAIYO・SUN』と『BEAUTY & HAPPY』に参加していますもんね。ハジメさんのそういう嗅覚の鋭さってソロになってからもずっと続いているし、音楽性は変わっても軸がブレない。
野宮:だから、いつも新しいし、時代を超えてアピールするんですよね。
高木:その軌跡をオールタイムベストアルバム『hajimeht』で確かめてほしいよね。


















