「坂本龍一は献身的なミュージシャンだった」 デリック・メイ、多大な影響を受けたYMOの衝撃

テクノの重鎮が語る、YMOの衝撃

 5月25日、『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』と「音楽」がシンクロするイベント『DEEP DIVE in sync with GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』がZepp Shinjuku (TOKYO)にて開催された。カッティングエッジなアーティストが一堂に会し、『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』の世界観をライブ・DJ・VRとして再構築。日本国内からはyahyelやマイカ・ルブテ、石野卓球らが出演し、ヘッドライナーとしてアメリカからデリック・メイが招聘された。

 石野卓球とデリック・メイの両氏はPlayStation用ゲームソフト『攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL』(1997年)のサウンドトラックにも参加しており、本シリーズにおいて重要な役割を担ってきた。両名のほかWestbamやハードフロア、ジョイ・ベルトラム、マイク・ヴァン・ダイクらが参加したこのサウンドトラックは、ゲーム音楽としてだけでなく、テクノの可能性を広げた名盤としてクラブカルチャーにおいても高い人気を誇る。なお、本作は今年9月に2枚組CDとして再販されることが決定している。

 『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』に限らず、デリック・メイは日本との縁が深い。『MIX-UP』シリーズへの参加や『Mixed by Derrick May x Air』のリリース、ageHaのレジデントDJ、デトロイトの御大は折に触れて日本のクラブシーンで存在感を放っている。本稿では、そんなデリック・メイに対し、『攻殻機動隊』をはじめ様々なトピックで話を聞いた。(Yuki Kawasaki)

坂本龍一とブラジルで偶然の遭遇「天啓みたいに感じられた」

ーーあなたと日本の関係はずいぶん長くなってきました。印象深い出来事はありますか?

デリック・メイ(以下、デリック):そんなの各地にあるよ! 北海道の「Precious Hall」はいつだって素晴らしい。オーナーの(小川)悟も大好きだ。東京では「Contact Tokyo」などを手掛けてきた(村田)大造にも良くしてもらってる。西麻布にあった「Space Lab YELLOW」も最高だったな。まぁでも、一番記憶に残ってるのは東日本大震災だね。当時は心から日本を助けたいと思ったし、日本人のことが心配だった。日本のシーンとの関わりは確かに長いけど、俺の方こそ恩を感じてる。あのときは、今こそそれに報いるべきだと思ったね。だから空港で「今日本に行くやつは愚かだ」と止められても、構わず来たよ。

ーー当時の私は高校生だったんですが、そのニュースを覚えてます。海外アーティストが軒並み来日をキャンセルする中、震災直後に来日してましたよね。

デリック:営業できないクラブもたくさんある中で、ギグをいくつかやらせてもらった。Ustreamで俺のプレイを配信してもらいながら、現場にも何人か来てくれたよ。フロアの人が何人か泣いていたのを覚えてる。ていうか、君はあのころまだ高校生だったのか! ……もう13年前だもんな。その世代にまでダンスミュージックが伝わってるのを嬉しく思うよ。

ーー我々世代にとっても、あなたの影響は大きいですよ。あなたがたデトロイト・テクノのレジェンドはYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)にインスパイアされたという話がありますが、時を経てあなたがたのダンスミュージックが日本のポップカルチャーで受容されています。凄いスペクタクルですよね。

デリック:まさに! ドイツのKraftwerkやTangerine Dream、そしてYMOは最高のインスピレーションだった。細野(晴臣)さんは特別な人だし、昨年亡くなった坂本(龍一)さんも突出した才能を持っていた。2人ともそれぞれ異なる特色を持っていて、あまりにも素晴らしいアーティストだよな。坂本さんに関して言えば、彼はすごく献身的なミュージシャンだったよね。様々な国の音楽からヒントを得ていたし、俺はそのやり方が日本的だとすら思ったよ。彼が亡くなる少し前にブラジルで会えたのが、自分にとっては天啓みたいに感じられた。

ブラジルで撮影したデリック・メイと坂本龍一

ーーなぜまたブラジルで?

デリック:まったくの偶然だったよ。坂本はコンサートがあったみたいで、ブラジルに来てたんだ。泊まったホテルが俺と一緒でね。彼がロビーを歩いてるところに「どうも、デリック・メイです」と声をかけて、会えて嬉しいと伝えた。彼は俺のことを覚えてくれていたよ。

ーー私があなたを知った頃、ある程度はインターネットで音源を探すことができたので、デトロイト・テクノ周辺のアーティストをディグることもそれほど苦労しませんでした。しかしあなたがデビューした80年代以前は、音源を探す手段も限られていたと推察します。どのようにしてYMOの音楽に辿り着いたのでしょう?

デリック:ひたすらレコード屋に通ったんだよ。ティーンエイジャーの頃、俺が16歳かそこらのときに彼らの存在を知った。YMOは俺だけじゃなくデトロイト・テクノ全体に大きな影響があると思うね。ああいったエレクトロニックな音は当時極めて珍しかったし、俺たちにとっては衝撃だった。アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』はもちろん、『BGM』もマジで素晴らしかった。あのアルバムに入ってる「1000 KNIVES」や「CAMOUFLAGE」、「LOOM」あたりは本当にとんでもなかったよ。実験的に聴こえたし、ものすごく影響を受けた。ほぼ同時期に出たKraftwerkの『Computer World』とあわせて、16歳の多感な俺たちを奮い立たせるには十分だったな。周りはRun-D.M.C.とかを聴いてたんだが、俺らは違ったね。

ーーそういった関連性も自分たちで見出す必要があったわけですもんね。Spotifyなどはジャンルやアーティストの相関などで他の楽曲などをサジェストしてくれますが……。

デリック:手がかりが少ないからこそ、当時は今以上にジャケットに書かれている情報が重要だったんだ。アートワークで「これは何だろう?」と気を引くことも大切だったし、誰がその作品に関わっているかも俺たちの判断材料として影響は大きかった。「キーボーディストにあの人が関わってる!じゃあ信頼できるな!」って具合にさ。それと、レーベルの信用度も今よりずっと高かったね。俺が1986年に立ち上げた〈Transmat〉にも、そういう信念があったんだ。レーベルの名前を見ただけで、お客さんがそのレコードを買っちゃうというか。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「インタビュー」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる