牛来美佳、「いつかまた浪江の空を」に宿る物語 震災後の歩みから楽曲リリースに至るまで

牛来美佳「いつかまた浪江の空を」に宿る物語

 東日本大震災により故郷の福島県浪江町を離れ、避難先でシンガーソングライターとして活動を続けている牛来美佳が、震災復興の願いを込めた「いつかまた浪江の空を」を今年3月11日にリリースした。この曲は震災から1年経った2012年に、彼女が震災後の現状を伝えたいという思いから、東方神起や西野カナなどを手掛ける作家の山本加津彦に制作を依頼して生まれたもの。浪江町出身の小学生の歌声も加えられた楽曲は、2015年にYouTube上で発表された。制作に着手してから10年の年月を経てリリースされたこの楽曲には、どのような物語が宿っているのか。被災による喪失感や絶望感に苛まれながら、前向きに力強く歩んできた彼女に、楽曲リリースまでの道のりを語ってもらった。(猪又孝)

一歩ずつ前に歩き始めて、気づけた大事な気持ち

――牛来さんは元々どのような音楽活動をされていたんですか?

牛来美佳(以下、牛来):小学二年生の頃から歌手になりたいという夢は描いていたんですけど、本格的に音楽活動を始めたのは東日本大震災後からです。

――学生時代にバンド活動などは?

牛来:イベントに出演するために趣味でバンドを組んで歌うことはありましたが、継続的にバンドで活動することはなかったですね。

――「いつかまた浪江の空を」を共作した作詞・作曲家の山本加津彦さんとは、どのように出会ったんでしょうか。

牛来:2009年に私の故郷の浪江町で山本さんと出会いました。街おこしの一環で『ストリートミュージックフェスタinなみえ』という音楽イベントを開催していて、私はその実行委員会のメンバーだったんです。

――どんな音楽イベントなんですか?

牛来:駅から街中のメインステージまでの道にいくつかサブステージを作って、日中は一般公募によるミュージシャンが各ステージで演奏するイベントなんです。夜はメインステージにプロをお呼びしてライブをしていただくんですが、2009年にお招きしたゲストが、山本さんがリーダーとして活動されているグループのAo-Nekoだったんです。

――以前、山本さんに取材させていただいたときに、「駅前で(ふくい舞の)『アイのうた』をカバーしている女性をたまたま見て、それが牛来さんだった」と語っていました。(※1)

牛来:私は運営側のスタッフとして毎年イベントに参加していたんですが、2009年に開催したときは、一般公募の方に混じってライブに出演していて、それがふくい舞さんのカバーバンドだったんです。それまで山本さんが「アイのうた」を作られた方だとは知らなかったんですが、運営スタッフとして参加した夜のメインステージのときに、Ao-Nekoのボーカルの川島葵さんが、後ろでピアノを弾いている方がリーダーで、彼はふくい舞さんの「アイのうた」も手掛けてますと言っていて。そこで私は山本さんのことを知ったんです。

――山本さんに今回の楽曲制作を依頼した経緯を教えてください。

牛来:震災が起きたときのままで残っている風景も含めて、本当にたくさん伝えなきゃいけないことがあるなと思っていたんです。とにかく伝えなきゃという思いに駆られていたときに、震災の三日後に避難先で心の内を吐き出すかのように携帯に打ち込んでいた詩があったことを思い出して。作曲なんかしたことがなかったけれど、これをひとつの曲にして、小さい頃から好きだった音楽として伝えていくことができるんじゃないかと、漠然と思ったんですよね。そこから音楽で伝える活動を始めたんです。

――とはいえ、最初は右も左もわからなかったのでは?

牛来:それまで音楽活動をしたことがなかったから本当に手探りでした。その頃、自主制作でミニアルバムを1枚作ったんですけど、まずは歌っている私を知ってもらおうと、いろんなところに声をかけて歌わせていただける機会を作っていた最中だったんです。でも、どうやったら届くんだろう? どうやったら伝わるんだろう? という悔しさと焦りを覚えていて。そんなときに、ふと山本さんのことを思い出して、浪江町を思って曲を作っていただけませんか? という手紙を添えて、震災後の浪江町の様子を撮った写真アルバムをお送りしたんです。それが2012年でした。

――楽曲制作はどのように進めていったんですか?

牛来:山本さんが鍵盤を車に積んで、私の避難先の群馬県太田市まで来てくださって。「僕はあのとき浪江町に演奏をしに行って、すごく空が綺麗だったことを覚えている」と言ってくださったんです。震災でこういうことになってしまったけれども、いつかまたあの綺麗な青々とした浪江町の空の下で人々が会えるようにという願いを込めて、少し先の未来を描くようなイメージで作っていくのはどうかという提案をいただいて、曲作りがスタートしました。

――歌詞はお二人の共作になっていますね。

牛来:そのときの私には、現状を知ってほしい、伝えなきゃっていう思いがすごく強くあったんです。ただ、山本さんからすると、少し先の未来を表現するときにそれだと言葉が強すぎると。「今、今」という思いが強すぎて、表現がキツイところがあったんですよね。

――牛来さんとしては、震災後の喪失感や絶望感、もがき、苦しみに焦点を当てたかった?

牛来:そうだったと思います。どうしたら伝わるの? どうしたらいいの? という思いが強かったので。「助けて下さい」という叫びにも近かったと思います。

――山本さんとのやりとりを経て完成した楽曲には、どんな印象を持ちましたか?

牛来:山本さん特有の、スーッと心に入ってくるようなやさしいバラードになったと思いました。でも、すごく芯がある歌にもなっていて。ところが、レコーディングに向けて歌い込んでいくうちに、「少し先の未来って何?」っていう疑問がだんだん自分の中に沸いてきて。今の状況を伝えたい私と、いつかみんなで空の下で会おうねっていう歌の内容に、だんだん心がついていかなくなって、一年近く、レコーディングできない期間があったんです。

――歌と心の距離を埋めるきっかけになった出来事はあるんですか。

牛来:レコーディングから離れていても、自分の音楽活動は続けていて、応援してくださる方や支えてくださる方に向けて歌っていく中で、たくさんの出会いがあったんです。それまで私は、震災がなければこんな辛い思いをすることはなかった、という念に堪えなかったんですけど、あるときに「あれ?」って。震災がなければこの人たちともあの人たちとも出会えなかったんだってふと気付いたんです。そのときに自分の中で吹っ切れたというか、何かがほどけて。何年かかるかわからないけれど、浪江が復興して人々が集まって当たり前の生活があふれている……自分が生きてる間にそんな浪江を見られるなら見てみたいって思ったんですよね。そのときに、この曲にちゃんと向き合うことができて、2014年の年末に差し掛かった頃に「やっぱり私、歌います」って山本さんに連絡したんです。

――震災によって人との繋がりを失い、数年後、震災をきっかけに人との繋がりを得たということですね。

牛来:本当に皮肉だなって思う部分もありますけど、きっと意味があって残された命だと思っていて。そう考えると生き抜くしかないし、乗り越えていくしかないんだって。震災後、一歩ずつ前に歩き始めて、その中で気づけた大事な気持ちだと思ってます。新しい出会いに支えられて、改めて思うことがあったり、新たに気付くことがあったりして、「生きてるんだな」って感じた瞬間でもありました。

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