大崎ケイ、音楽という居場所だから歌える素直な気持ち 「SOS」を発する全ての人たちに伝えたい“生きる道”

大崎ケイ、音楽だから歌える素直な気持ち

 1月26日に「SOS」を配信リリースしてメジャーデビューする、大崎ケイ。作詞作曲のみならずアレンジや映像までセルフプロデュースできるマルチアーティストである。R&Bやダンスミュージックをルーツに、DTMを駆使するその音楽性は、体感的なビートを柱に、自身の生き様や苦しい胸の内を放つ言葉を、クリアで伸びやかな声で歌い上げていく。まずはデビュー曲「SOS」を聴いてもらえば、その凛とした楽曲世界と、音楽の中に生きていく意味を見出そうとする切実な想いを感じてもらえるはず。今回のインタビューでは、子供の頃に転校を繰り返したことで引きこもりがちになっていたという大崎ケイが、どのようにして音楽にたどり着き、楽曲制作をするようになったか、そしてここから想い描く夢をじっくり語ってもらった。(上野三樹)

一人で生きることが当たり前だった10代の頃

ーー小学生の頃からダンスやエンタテインメントを好きになったということですが、どんなきっかけでしたか。

大崎ケイ(以下、大崎):もともとテレビが好きで音楽番組をよく見ていたんですけど、小学生の時にPerfumeさんやモーニング娘。さんといった、歌って踊る人たちに憧れて。Perfumeさんのサウンドのバキバキな音圧がカッコいいなと思ってCAPSULEさんも聴き始めました。小4くらいでダンスを始めたんですけど、自分がアイドルになろうとは思わなかったですね。あんなキラキラした世界に自分が入れるとは思わなかったので。真似したり鑑賞したりする、ただの音楽好きでした。

ーー6回ほど転校されたということですが、初めての転校はいつでしたか。

大崎:初めての転校は小1で、そこから1年に1回くらいのペースで転校して、最後は中2でも転校しました。親は転勤族だったんですけど、私はそれについていくだけの、従順な、あまり意志を持たない子供でした。赤ちゃんの時から、転んでも怒られても泣かなくて、気を遣いながら生きていたかもしれないです。親にも、何も言わないからこの子は大丈夫と思われていたんでしょうね。いつも、1人で全部やらなきゃという意識がありました。

ーー転校を繰り返すと、友達ができても出会いから別れまでの時間が短かったりして大変だったと思います。当時はどんな気持ちでしたか。

大崎:小学生の時は運動もできたし、その環境に合わせてキャラ変をしながら馴染んでいました。クラスの中にいる、いわゆる1軍についたり、ここでは目立つ人がいないからトップになろうとか(笑)。だんだん、そういう見極めができるようになっていきました。環境に適応して生きていかなきゃいけないんだと。そういうこともあり小学生の時はずっと、友達と呼べる友達はいなかったですね。

ーー転校を多く経験したことによって、人とのコミュニケーションの取り方や性格などに影響はありましたか。

大崎:転校したら1度は前の学校の子から手紙がきて「みんなで集まろう」とか書いてあるんですけど、やっぱり久しぶりに会うともう全然空気感が違ったりして。接すれば接するほど傷ついちゃうので、それが怖くて人とのコミュニケーションが淡白になっていったところはあります。だから、その場面ごとに合わせた人生という感じで生きてましたね。いつもドラマのワンシーンみたいな感じ。自分のキャラも環境ごとに間に合わせたものだから、自我というものが何なのかわからなかったです。

ーー中学生の頃に引きこもってしまったということですが、その頃はどんな生活でしたか。

大崎:多感な時期というのもあって、中2の時の転校で環境に適応したりすることに疲れて全部シャットダウンしてしまいました。いじめられてたわけではなくて、みんな優しかったけど疲れちゃって。学校に行っても保健室で寝ていたり、進学するための出席日数だけはなんとか取れたのですが、後は家にいたり、一人で公園のベンチに座っていました。携帯も持っていなかったので、ただ景色を眺めたり、持っていたiPodで音楽を聴きながら散歩したり。こんな話をするとみんな「大変だったね」って言うんですけど、私にとっては割とポップな日常でしたね。それを誰かに相談したりもしなかったです。

オーディションを経て見つけた“自分が生きる道”

ーーその頃に動画共有サイトに投稿を始めたそうですが、どんな反応がありましたか。

大崎:もともとは『こえ部』という、音声専門のコミュニティサイトがあって、そこで活動を始めたんです。13歳の時は可愛い声だったので(笑)、ランキング1位になったりして。引きこもって暇だったのもあって、いろんなセリフを喋った声をアップロードしていました。顔も知らない友達がたくさんできて、ここだったら輝けるかなと。ただ、私は滑舌が悪くて早口言葉が言えないので、お医者さんに大人になったら舌を切る手術をしないといけないとまで言われて。だから歌の方に行ったんです。

ーーそこで歌と音楽制作を始めるんですね。趣味でDTMを始めた当初は、どんな感覚で音楽と向き合っていましたか。

大崎:小さい頃からパソコンに触れていたし、テクノロジーが好きだったんです。音楽ってどうやって鳴ってるんだ? って興味を持ち、DTMで作れることを知って制作を始めたのが中2の頃。その時は誰かが作った音楽に自分の歌を乗せてニコニコ動画にたくさんアップロードして活動していました。そんな時に、私の歌を好きで聴いてくださっていた人から「君の歌、良いと思うんだけど将来どうするの?」みたいな感じで音楽塾ヴォイスを紹介されて。すぐにオーディションを受けたら受かっちゃって、月謝を払うお金がなかったから1カ月バイトして貯めて、通い始めました。そのアドバイスをくださった方は今だに誰だったのかわからないんですけど(笑)、でもこうしてデビューできることになったので、良かったなと思っています。

ーー音楽塾ヴォイスに入った時は、将来シンガーソングライターになりたいという気持ちはすでに固まっていましたか。

大崎:実は全然なかったです。中学生の頃から引きこもりがちで人生何も決まっていなかったので。でも入ったら周りの子達は本気でやっていて。YUI(現 yui)さんとか家入レオさんとかもそうですよね、本気で音楽塾ヴォイスの門を叩いて入られた方たちばかりの中、申し訳ないですが当時の私は軽い気持ちで入ってしまいました。中学生の頃から生きる気力を失って、その頃は20歳でしたが、私は生と死というのはあんまり境目がないと思っていたし、オーディションを受けてもし落ちたら、この世からいなくなってもいいかなとか考えていました。そんなふうに思っていたところで音楽塾ヴォイスのオーディションに受かったので、今度はデビューすることを生きる目的にしてきました。

ーーオーディションに受かって良かったですね。

大崎:そうですね。それまで支えてくれるような友達もいなかったし、その時はちょうど20歳になったことで、これ以上何もなかったら、もういいんじゃない? って。だから、そういう意味ではみんなと一緒かもしれないですね。生死をかけて音楽塾ヴォイスの門を叩いたんです。

ーーいや、皆さんは生死じゃなくて、夢をかけて門を叩いてます……。

大崎:そっか(笑)。だからヴォイスという居場所ができて、救われました。校長先生が親のような感じで、温かかったので。

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