『音楽はおくりもの』インタビュー
矢野顕子、バンドへの確信から生まれた“ポップスの醍醐味” 「45年経っても、音楽だけは突き詰めたい自分がいる」
矢野顕子のデビューアルバム『JAPANESE GIRL』がリリースされたのは1976年7月25日。それから45年を経た2021年、デビュー45周年を彩るニューアルバム『音楽はおくりもの』が完成した。恒例となっている『さとがえるコンサート』で、ここ数年のメンバーとして盤石の信頼を築いてきた小原礼(Ba)、佐橋佳幸(Gt)、林立夫(Dr)が参加。10曲の収録曲のうち、カバー曲「津軽海峡・冬景色」をのぞいて、すべての作曲は矢野顕子。作詞は本人に加えて、先行して発表されていた「愛を告げる小鳥」など、4曲を糸井重里が担当している。
今までの矢野顕子のポップスの到達点であると同時に、新たに「バンド」としてのサウンドにもこだわった『音楽はおくりもの』。今回はニューヨークに戻っている矢野にリモートでインタビューを行い、コロナ禍でのレコーディングとなったアルバム、そして45周年の心境を聞いた。(渡辺祐)
「“私もバンドの一員”とはっきり思えたのは、久しくなかった感覚」
ーー手元にあるアルバム資料に、矢野さんご自身のコメントとして「辞世の句というものがある」「矢野顕子の場合、『音楽はおくりもの』はそういうものかもしれない」という一文があります。「辞世の句」というのは、少しドキッとさせられるフレーズでした。
矢野顕子(以下、矢野):あ、そうですか(笑)。まあ、人間いつ何があるかわからないということを思えば、仮に「これが最後のアルバム」になっても悔いなし! というような意味ですね。「これですべてをやりきった」ということではないんですよ。もちろん次にやりたいことのアイデアもありますから。
ーー以前のインタビューで、コロナ禍でのライブに関して「もしこの先、人が集まれない、ライブができないということになっても、私は受けとめる」ということもおっしゃっていました。
矢野:そう、ライブに関しても出し惜しみをしてきていないので。私が生きている「音楽人生」って、そういうものじゃないかなと思っています。
ーーそんな矢野さんは今回のアルバム制作にあたって、どこに向かって舵を切ろうと思っていましたか。
矢野:まずこのメンバー(小原礼、佐橋佳幸、林立夫)で作る、ということは決めていました。この2年間ぐらいライブを重ねてきて、バンドとしての手応え、つながりがしっかりとできていましたから、曲もこの4人で奏でるものとして作りました。私の歴史の中では、例えばトリオでのスタイルもありますけど、はっきりと「私もバンドの一員」と思えたのは、久しくなかった感覚だったんですね。いわゆるバックバンドではなく、矢野顕子の音楽を一緒に作り上げてくれる、そんなメンバーに恵まれたことがスタートですね。
ーーそこまで明確に「バンド」として意識していたわけですね。
矢野:ライブを重ねていたのは大きいですけど、より意識したのは2020年の秋にシングルとしてリリースした「愛を告げる小鳥」のレコーディングですね。この時は、私がニューヨークにいて、みんなは東京にいて、それぞれの演奏をリモートで重ねていったんですが、それが素晴らしいバンドサウンドになった。これができるということのすごさ、ありがたさを改めて感じましたね。
ーーその後もコロナ禍は続いていますが、具体的にどんなプロセス、コミュニケーションで進んでいったんでしょうか。
矢野:曲ができたら、まず私が鼻歌、鼻ピアノ(笑)で演奏して、それを送って聴いてもらいました。そこからはZoomを使ってみんなで「こうしてみたら?」とか「こんなフレーズはどう?」とかアイデアを出し合っていくんです。その上で東京のスタジオに入りましたから、レコーディングの時点では全員が同じ方を向いている。なんていうか、中学生が夏休みの自由研究をグループでやっているみたいな感じ(笑)。それぞれがフィールドワークなんかしてきて、その研究結果を4人で発表するようなイメージかな。
私が「家」や「家族」を歌うとき、イメージの真ん中にあるのは「ごはん」
ーーそこまでバンドとしての確信があったら、バンド名をつけようなんて思いませんでしたか。
矢野:それは思ってなかったかな。名前をつけちゃうと「結成だ」「解散だ」となって、ちょっとアレじゃない(笑)? そういう意味では、今回は「矢野顕子」という名前の4人組バンドだと思ってもらっていいと思います。カバー曲として「津軽海峡・冬景色」を録音しましたけど、これもこのバンドで演奏したときにそれぞれのプレイヤー魂が爆発するような気持ちよさがあったから、自然にやろうということになりましたね。矢野顕子(個人)であると同時に、矢野顕子(バンド)としてのカバーになっていると思います。
ーー先ほどお話に出てきた「愛を告げる小鳥」のほか、先行配信された「遠い星、光の旅。」、そして「わたしがうまれる」「なにそれ(NANISORE?)」の4曲は、糸井重里さんが作詞を担当しています。「遠い星、光の旅。」は星座の名前を挙げていきながら、そこに〈ぴかぴか〉といったシンプルな言葉が重なってきます。他の曲でもとてもシンプルな言葉の構成になっていると感じました。アルバムへ向けて糸井さんと何か話したりしたんでしょうか。
矢野:糸井さんとはいつも通りですね。私から何曲書いてほしいとか、こういうテーマでとか、そういうことも一切なく(笑)。「こんなのできたけど」って送られてきて、私が曲を書く、以上、みたいな。でも、例えば「遠い星、光の旅。」にしても、今までの“糸井重里の歌詞”とは少しタイプが違っていたりして、「今の糸井重里が書きたいこと」なんだなと思います。言葉のリズムはすごく感じましたね。ちなみに糸井さんは、私と違って宇宙に興味はないみたいなんですけど、私の宇宙好きなツイートを読んだりしてくれたうちに、どこかで自分と宇宙がつながったみたいです。
ーーその一方、矢野さんが自身で歌詞を書くにあたって、何かテーマはありましたか。
矢野:テーマを想定してということはあまりなくて、私の歌詞は「曲に呼ばれる」ことが多いんです。糸井さんが作詞する曲は歌詞が先で、私が作詞する場合は曲が先。きっと日常の中で思っていたことが、曲に呼ばれて出てくるんですね。
ーー日常という意味では、矢野ポップスのお約束と言ってもいい食べ物が登場します。しかも今回は〈魚肉ソーセージ〉ですね。この「魚肉ソーセージと人」という曲は、たぶん世界初の魚肉ソーセージ・ソングかと思われます。
矢野:そうかな、そうかもしれない(笑)。魚肉ソーセージと向き合ったのは、奥田民生さんがきっかけなんです。数年前にリハーサルスタジオに入った時に、そのスタジオの売店で民生さんが魚肉ソーセージを買って、そのままむしゃむしゃ食べ始めたのを見て驚いちゃって。「え、火を通さないの?」と思って。私にとっての魚肉ソーセージは、炒めたり、ラーメンに入っていたり、実家のごはんに出てきた料理の食材のひとつだったんです。民生さんをきっかけに、そんな「私にとっての、家族にとっての、そして人にとっての魚肉ソーセージ」を歌おうということになりました。だから〈父〉や〈母〉が歌詞に出てきます。私が「家」や「家族」を歌うとき、イメージの真ん中にあるのは、やっぱり「ごはん」なんですよね。