Tempalayは“ゴースト”を通して何を語りかけた? 最新ツアーファイナル公演に宿ったバンドの意思

 Tempalayが最新アルバム『ゴーストアルバム』に伴う全国11カ所12公演からなる『ゴーストツアー』を完遂した。今回はツアーファイナルであるZepp Haneda公演の2日目をレポートする。

Tempalay

 東京は緊急事態宣言が延長され、羽田に向かう道中に渋谷を通過したが、飲食店以外も入っているテナントビルも休業。「人流」という言葉を使うのならば、その多さに比較して街が機能していない。まるで悪夢だ。それに対して、Tempalayのライブはこの現実がゴーストなのか、もしくは今、バンドが演奏している場所がゴーストなのか、あなた自身の感性で選べばいいと問いかけているようだった。あくまで筆者の受け取り方で、彼ら自身はただただ、新作を軸とした現在のライブアレンジやアンサンブルと演出を100パーセント出し切ることに注力していた。ただ、Tempalayはこのご時世、リアルでオーディエンスと対面することの困難のさらに先を見ていたと思う。それほど野心的だったのだ。

  現実とこのライブのどちらがゴーストなのか。現代アートのインスタレーションのようなテーマだが、そんな感覚を持った理由はオープニングに流れた緊張感に支配されるサイレン音。架空の緊急事態下に置かれた感じは、今回も映像演出を手がけるMargtによるグラフィックで増幅。横に広いステージ背景を目一杯使っていることも没入感が強い。

 そこに投下された1曲目は「シンゴ」。爆音なのだが、耳に痛い大きさではなくみぞおちを揺さぶられる感覚だ。アルバムでもほぼ全編でベースを弾いている高木祥太(BREIMEN)の、動きまくるフレージングと、John Natsuki(Dr)のキックのせいだろう。続く「人造インゲン」も音源の比じゃない、蠢く低音でまるでボディブローを受け続けている感じ。「ああ迷路」でのビジュアルは顕微鏡で見る微生物が密集したような気持ち悪さ。まるでウイルスを可視化しているようで、演奏の確かさと相まり、現実とは別の位相に完全に持っていかれた。この冒頭のブロックで、前述したような「現実とこの場所のどちらがゴーストなのか」という印象が決定づけられた。また、彼らの音楽を容易く形容する時に用いがちな“サイケデリック”が持つ意味の中にはゴスもハードコアもインダストリアルも含む新たな共通認識が必要だな、とも思った。

 バンドネームを演出に使うことも多いMargtだが、「EDEN」ではロゴとして認識する前に煙になって消える表現が面白い。小原綾斗(Vo/Gt)のギターが獰猛なサウンドに変化し、テンポダウンからヘヴィなブルースロックのテイストを醸す頃、背景は砂漠に浮かび上がる謎解きの文字に変容。冒険SF映画を想起させる。そこからの汎アジア的な金物のサンプルが揺らぐ「未知との遭遇」の呪術性。反復するビートはNatsukiの生音の演奏でありながら、熱を差し引いた冷たい響き。シームレスに初期のナンバー「my name is GREENMAN」に繋いだのだが、ここでも綾斗のギターはジミヘンばりに太い。新作以外の楽曲が並ぶこのブロックは現在のバンドのフィジカルの強さを証明する形にもなっていて、「どうしよう」のブレイクの精緻、「革命前夜」のビートから違和感なく「Walk This Way」のリフを拝借して「忍者ハッタリくん」のイントロにつなげるというユーモアも忘れない。

 続く『ゴーストアルバム』の叙情的側面である「春山淡冶にして笑うが如く」は、綾斗が祖母の気持ちになり切り、(綾斗が)故郷を離れて行く時の気持ちを想像して書いた曲だという。不意に現実の感情が混ざる。現実といえば「Odyssey」の映像演出は様々な交通標識がチュッパチャップスのように飛び交い、羽田の看板も飛ぶというもの。この会場2公演のためだけに作ったのだろうか。演出に気を取られていたが、この曲も続く「何億年たっても」も、ボッサやディラビートなどを行き交うNatsukiの緻密な組み立てと、その隙間を這うような高木のフレーズが今のTempalayのアンサンブルをより立体的なモノにしている。CDの早期予約特典盤でしか聴けないAAAMYYY(Syn/Cho)とNatsuki作の「フクロネズミも考えていた」もグッとミクスチャー的な厚みを聴かせ、さらに各々の楽器のビートやタイム感が異なる「へどりゅーむ」も自重で壊れそうなマシンのように爆音アレンジに変更されている。子供の声の“頑張って練習しました”というサンプリングを額面通り受け取ってしまう怪演だった。

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