ポップミュージックにおける、“ボーカル多重録音”の効果 ジャスティン・ビーバー『Changes』を機に紐解く

 ジャスティン・ビーバーのニューアルバム『Changes』は、アトモスフェリックなビートに包まれたビーバーのボーカルが強い印象を残す。ときにごく近く、ときにリヴァーブの向こう側に遠ざかりつつも、甘ったるくキャラ立ちした歌声は抜群の存在感だ。

ジャスティン・ビーバー 『Changes』

 一方で、たとえばPitchforkでは10点満点中4.5点となかなかの酷評。レビューの「輝きもエロティシズムもあるが空港のターミナルのそれだ」という一節にはさすがに笑ってしまった(参照)。かつてリアーナがディプロのデモを聴いて言い放った「空港で流れてるレゲエみたい」を彷彿とさせる。たしかに、17曲で51分という長さに対して起伏が少なすぎ、歌詞に聴きどころがあるわけでもなく……という難点はあるだろう。であるとしても、こうした声の存在感に惹かれてつい聴いてしまう。

 ここで注目したいのが、この声の存在感がビーバーの持つ恵まれた声質によることはもちろん、録音された声の処理や、ダビングされたハモりやアドリブの空間的な配置によっている、ということだ。『Changes』でのブライトで深い、かつすごく人工的な(人によってはチープに感じるかもしれない)ニュアンスがあるリバーブを駆使した声の処理とは対極的ではあるけれど、たとえばビリー・アイリッシュのように、ドライなボーカルを繊細に重ねて親密な(しばしばASMR的と言われる)空間を演出するミュージシャンも、「録音された声」の扱いでリスナーの耳を惹きつける。

 と、いうわけで、いささか唐突ながらポップミュージックにおける「録音された声」についてここで一席ぶちあげたいと思う。特に、多重録音の駆使について。

 歌声はあるときには言葉やメロディを伝える媒体だが、またあるときにはそのサウンド自体が雄弁に語り、あるいは言葉にしがたい官能を纏う。「録音された声」においては、そこに録音以降のプロセス――つまりミキシング――が加わることで、より複雑な世界をつくりこむことができる。

 そもそも、自分自身の声でハモりを重ねる、なんていうのはポップミュージックではよくあることだ。あるいは、ボーカルをダブルにする(違うテイクを左右チャンネルにふりわけて使うことで、ステレオ的な広がりをもたせることができる)とかも。しかし、よく考えるとこれはとても奇妙だ。ひとりの人間が同時にふたつ以上の声を出すことは現実にありえないわけだから。にもかかわらず、それに違和感を覚える人はほぼいないだろう。それどころか、こうしたテクニックによってつくりこまれたサウンドに空間や情感をありありと感じ取りさえする。

 こと多重録音の普及以降、あらゆるポップミュージックはおよそ「現実にありえない」フィクションの空間をスタジオのなかやDAWソフト上でつくりだしてきた。これ見よがしの非現実ではなかったとしても、異なる時間、空間で捉えられたサウンドを、あたかもひとつの時空にあるかのように上手にうそをつくのがポップミュージックである。

 ミュージシャンやエンジニアは音量や左右の位置、音質等々をコントロールすることで、サウンドの中にしか存在しない世界を一曲一曲かたちづくっている。現代のリスナーは当然のようにそうしてつくりだされた世界に没入していく。それはあたかも、断片的なショットの集積にひとつの時間の流れを見て取り没入する、映画のようだと思う。

 その「ありえなさ」がエクストリームに達すると、10ccの「I’m Not In Love」のバッキングのように、大量に録音した歌声をミキサー上で操り「演奏」するような試みも生まれる。1オクターブ内の12音を1音ずつ録音したテープループ(しかも、このテープごとにさらにボーカルが3人×16回重ね録りされている)をミキサーのチャンネルに割り振り、音量フェーダーの上げ下げで必要なコードを鳴らす、という、いわばスタジオをまるごとメロトロンにしてしまうことであの印象的なサウンドをつくっている。

10cc – I’m Not In Love

 10ccの場合は4人組によるチームワークだったが、ソロミュージシャンにおいてももちろん声の多重録音は重用される。ジャズボーカリストのボビー・マクファーリンの作品や、山下達郎による『ON THE STREET CORNER』を思い起こす人も多いだろう。

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