SEKAI NO OWARI、『Eye』『Lip』で増したプロダクションの説得力 より開かれ精緻な世界へ
このように2枚のアルバムを俯瞰してみると、セカオワは90年代以降のJ-POPを総括するかのような大仕事にとりかかっているようにも思える。そこに加わるバロック的な錯綜する旋律であったり、ケルト音楽風のフォークロア、あるいは歌詞は、日本のポップカルチャーで根強く受け継がれてきたファンタジーの世界観(ドラゴンクエスト、ファイナルファンタジーといった国民的RPGシリーズがわかりやすいだろうか)をJ-POPに接続しなおしているわけだ。ということは、大げさに言ってよければ、日本のポップカルチャーのいち側面の縮図としてこれらを捉えることもできるだろう。
とはいえ、それは良かれ悪しかれガラパゴスとも揶揄されてきた日本のカルチャーをまるごと抱え込むことでもあり、彼らのこれまでの活動になかなかノレなかったリスナーは、どちらかといえばこうしたドメスティックな感覚に対して懐疑を抱いていたのではないかと思う。率直に言えば筆者もそちら側だった。
しかし、『Eye』と『Lip』はプロダクションの率直さや、なによりメンバーそれぞれの個性がはっきりと、存分に暴れまわっている快活さは存外なほど風通しがよい。狭い空間のなかにサウンドを詰め込んで整えきってしまうのではなく、分離のよい広々とした音像にまとめているのも風通しの良さの一因だろう。どちらかといえば箱庭的だった世界の壁が崩れたような印象だ。
SEKAI NO OWARIがこの2作でつくりだした、より開かれ、精緻な世界に没入したあとは、リスナーの側がこれらの作品のなかに込められたメッセージやメタなギミックに向き合う番だと言える。それに賛辞を送るのであれ批判するのであれ、あるいは言葉にするのであれ自分のなかに秘めておくのであれ、考えてみるだけのポテンシャルはある作品だ。
■imdkm
ブロガー。1989年生まれ。山形の片隅で音楽について調べたり考えたりするのを趣味とする。
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