愛知県豊田市に“音楽フェス”を根づかせたパンクスの精神 炎天下GIGからの歴史を紐解く
トヨロックや橋の下音楽祭、PUNK CARNIVAL開催へ
そうしてできあがったライブハウスが無くてもライブができるというカルチャーの影響は、パンク以外の人間たちにもひろがっていった。
YOSHIKIと同じ年代だがパンクではなく、インドなどの東南アジア諸国に行き、ヒッピーカルチャーなどに影響を受けた人間たちも、ライブハウスやクラブの無い豊田で何かを始めようと画策していた。
その人間たちの中に、町づくりに取り組む会社で働いていたえーちゃんという人間がおり、会社内部から「フリーフェスをやりたい」と思い、立ち上げたのがトヨロックの始まりである。
炎天下GIGを体験し、主催のYOSHIKIを知るえーちゃんは、YOSHIKIに「一緒にやろう。協力してくれないか?」と相談を持ちかける。
企画やメイン業務はえーちゃんたちが行い、出演やデザインなどで協力していたYOSHIKIは、TURTLE ISLANDの作品を発売しているレーベル<microAction>の根木氏をトヨロック主催者たちに紹介すると、根木がメインステージのブッキングを担当するようになり、ほかのフェスとは違った独自の色を見せたフェスとなっていく。
今では豊田市最大の音楽フェスであるトヨロックも、炎天下GIGがなかったら同じ形にはなっていなかったであろう。
そしてYOSHIKIは、炎天下GIGから退いたあと、TURTLE ISLANDというバンドをはじめる。笛や和太鼓にウッドベースのほかにも、ギターやベースも入る大所帯のバンドで「和」を感じるオリジナリティの塊のようなサウンドは、日本全国はおろか世界中に影響を与え、瞬く間にその名を轟かせていった。
そしてYOSHIKIは、豊田市郊外に「斑屋」というライブができる場所を作った。豊田市で初めてといってよいライブができる場所には多くのバンドが出演し、斑屋でイベントがあるときは、近隣の県や街からも大勢の人間がやって来ていた。
斑屋という場所も、ライブがメインではあるのだが、今の橋の下世界音楽祭の雛形のような場所で、自由が満ち溢れた場所だった。
その後斑屋は駅近くに場所を移す。狭くなったために人が入りきれず路上まで溢れ奇跡的に混沌営業を続けたが、最初から5年限定で取り壊し物件だったため、約束通り移転してからは5年で幕を閉じた。
しかし現在「橋ノ下舎」というコミュニティスペースをYOSHIKIが作り、弾き語りなどの爆音サウンドではない音楽などを披露する場所も出来上がり、斑屋の精神は引き継がれている。
そのYOSHIKIが、東日本大震災後に、地元で何かをしたいと思い立ち上げた「祭り」が橋の下世界音楽祭である。
興行やイベントではなく「自分たちで何かできることは?」と考え始めた時に思い立ったのが「祭り」であり、何もない河川敷の橋の下に、全て手作りで一つの街ができあがる。そこでは音楽はもちろん、飲み屋や飯屋、鍛冶屋や服屋など様々な店のほかにキャンプサイトなどもあり、映画上映も行われる。
前祭りを含め8日間行われる祭りが行われるこの規模の街を、一から手作りで作り上げることは驚愕に値する。一度でいいから是非体験してほしい空間である。そして「投げ銭」という方式で観客からカンパを募っているフリーライブであるところも大きなポイントだ。電力も全てが太陽光発電で、片付けから終わったとの河原の草刈りまで行う素晴らしいフェスである。
街というもののつくりの根本がそこにはあり、人間の営みがリアルに感じられる祭りは、ぜひ一度体験してもらいたい日本独特の音楽祭である。
この祭りの最後は盆踊りで締めくくられるのだが、現在その盆踊りのみが夏場に豊田市駅前で行われるなど、様々な派生効果をも生んでいる祭りである。この祭りの主催も炎天下GIGに初期から関わってきたYOSHIKIであるというところに、脈々とつながる魂を感じざるを得ない。
その炎天下GIGにおいて初めて「パンク」や「バンド」というものに触れ、衝撃を受けたのがTOYOTA PUNK CARNIVAL主催であるSYSTEM FUCKERのYUTAである。
炎天下GIGは無許可のために問題が多く、開催ができないことが続いていた時期に、YUTAがKOHSUKEに「何で炎天下やらんの?やろうよ」としつこく言い続けていた。するとKOHSUKEは「そんなにやりたきゃお前がやれ」と、YUTAに炎天下GIGを任せることになった。炎天下GIGで人生を変えられたYUTAは「俺が炎天下やっていいの?」と驚きつつも、自ら行動を起こし炎天下GIGを引き継いだのである。
このあたりも、炎天下GIGのはじめに引き継がれた模様と酷似していて、豊田という街の人間の繋がりが見えるようで非常に面白い。
PUNK CARNIVALを始めた当初は若手バンドのみで開催し、若者の可能性を無限に感じられるフェスだった。まだ無名の若手が、トヨタスタジアム外周部分の一部を使ったフェスを、今年で5回目を迎えるまで続けてきた。
「豊田にはライブハウスやクラブができる気配すらない」と言うYUTAは「駅前で何か面白いことをやりたい」という炎天下GIG当初の面々の思いを未だに引き継ぎ持っており、日々街の呑み屋などに行っては空き物件情報などがないか探し回っているようである。