『FULLMOON RAVE 2017』開催直前インタビュー
トランスブームの立役者・DJ KAYAが語る、シーンの変遷と『TRANCE RAVE』復活の意義
トランスブームは当時の音楽以外のものも含めた「渋谷のカルチャー全体の力」
――当時日本で爆発的に人気を得たトランスブームの実情はどんなものだったんですか?
DJ KAYA:あのムーブメントは、トランス系の楽曲やDJだけで起こしたものではなかったと思います。むしろ、渋谷のカルチャー全体が生み出したものという感じだった。当時は今よりも渋谷という言葉が全国に与える影響力が大きくて、同時期に『Men’s Egg』や『ボーイズラッシュ』も人気雑誌になってて、そういえばエゴイストも人気で渋谷109のカリスマ店員ブームが起きてましたよね。そこに至るまでにも学生サークルのパーティーのブームや、渋谷パイロンのコギャル的なブームもあって、トランスは最初、その中の流行に敏感な最先端の人だけが楽しむものだったんです。そうした感度の高い遊び人がK-styleに集まってました。そこに『Cyber TRANCE』や『TRANCE RAVE』が出てきたことで、渋谷、六本木、新宿などの色んな人々が、結果的にトランスというカルチャーに集まった。今だから言えることですけど、当時はサイバートランスが羨ましかったです。ベルファーレという箱も凄いし、avexの広告宣伝費も凄いし(笑)。悔しいけど、自分のPARTYよりも爆発的に流行るところを目撃したわけですから。でも、それがあったから、『TRANCE RAVE』を絶対に売りたいと思ったし、『Cyber TRANCE』とは真逆で日本向けなポップな選曲を『TRANCE RAVE』でやれたと思います。ちなみにavexとは後に『SUPER BEST TRANCE』ってCDで一緒に仕事をするような関係になるんですけどね。僕は『TRANCE RAVE』のコンセプトを「トランスとか何も知らない人が聴いても、ただ良いと思える曲だけを集める」というものにしました。そうしたら、5作目~6作目のときに10万枚以上売れるような状況になっていきました。
――最終的に『TRANCE RAVE』シリーズはオリコンチャートの洋楽部門で1位になり、『日本ゴールドディスク大賞』公認アルバムにもなりました。
DJ KAYA:でも、当時は何が起きているのかよく分かっていなかったですね。もっと上手くやれるはずだったという反省が多すぎたし、自分は単にQUAKEさんが持っている色々な曲を聴いて、「この曲にしよう」と選んだだけなので。「俺のCDが超売れたぜ」という感覚は今でもありません。僕が代表してミックスして選曲もしたけど、あれは当時の音楽以外のものも含めた「渋谷のカルチャー全体の力」だったんですよ。実際、『TRANCE RAVE』には『TRANCE RAVE presents men's egg night』や『ブチアゲ♂トランス』、Club ATOMのCDなど色んなシリーズがあって、僕が担当したのは3カ月に一度の頻度でリリースしていた総集編=ベストでした。だからこそいい曲が揃ってて、結果的に最も売れたというのがあって。もちろん、コンピレーションが売れたことは、純粋に嬉しかったですけどね。葛藤を振り切って「みんなが喜ぶことをしよう」と思ったことが、結果に繋がったわけですから。とにかく、『TRANCE RAVE』は決してDJが主役じゃなかったんです。お客さんをメインに考えていたからこそ成功したんですよ。
――ただ、トランスは一度爆発的に市民権を得ただけに、その後はブームの落ち込みも経験することになったと思います。
DJ KAYA:そうですね。何でもそうですけど、アンダーグラウンドのまま盛り上がらなければ、同じ状態が一生続くわけですよね。ただ、一度ドーン! と盛り上がってしまうと、そのまま右肩上がりを続けることはかなり難しい。ブームの後のトランスシーンは、まるでバブルが弾けたかのようでした。一方で、海外ではオランダを中心に起きたトランスブームが、結局アメリカまでは届かず、あくまでヨーロッパ圏のムーブメントで終わってしまった。しかしそのときにアーミン(・ヴァン・ブーレン)やティエストが、アメリカ国民にボディーブローのように爪痕を残したおかげで、後にEDMとしてアメリカでもオーディエンスの支持を得ることになるわけです。
――つまりトランスのムーブメントがあったおかげで、アメリカでも爆発的な人気を誇るダンス・カルチャー、EDMが誕生した、と。
DJ KAYA:僕はそういう部分もあると思っているんです。ただ、日本の場合は、「トランスって一番かっこよくね?」という時期を爆発的な規模で迎えたことで「もうトランスってダサくね?」というところまで行ってしまった。その責任のひとつは、『TRANCE RAVE』にもあったと思います。あと、日本独自の振り付けがついてパラパラになったときが、シーンの決定的な分岐点だったんだと思いますね。でもそれは、あるカルチャーが当初の枠を超えてより広がっていったという、何よりの証拠でもあったと思います。コアな人たちは減ったけれど、それが今のEDMブームに時代を繋げた部分はきっとあったはずです――現在EDMフェスのヘッドライナーを務めたりもするティエストはまさにそうですね。
DJ KAYA:今のティエストにとってのEDMは、きっと僕にとっての『TRANCE RAVE』のような状況なんだと思いますね。トランスをやっていた初期のティエストは、今と真逆なイメージです。いい曲は多いし、僕自身も超好きな曲がたくさんありましたけど、トランスブームの後期はティエストをかけたら若い子は乗りづらい感がありました(笑)。日本でトランスが盛り下がっていったときに体験したのは、これは今のEDMにも言えることですけど、海外のアーティストが日本人が求める(キャッチーな)曲を作らなくなるということでした。日本人が求める曲と海外の人が盛り上がる曲はどうしても違う部分があるし、そこには(カルチャーが広まっていく際の)時差もあって、国内は徐々に日本人が日本の人々に向けてトランスを作る時期に移行していくんです。「一晩通して僕やDJ TORA.ORIENTAL SPACE. Overhead Champion.DELACTIONなどをはじめ日本人の曲しかかからない」という、謎の現象が生まれていったんですよ。そうなったことで、音楽的にも幅が狭くなって、シーンが見事に縮小していきました。でも、僕はそのとき逆に、「日本人が作った曲だけでフロアが成立しているのってすごいな」と思ったんですよ。そして、このとき「日本人が作った曲が海外でも流行っている」という状況にできたらよかったな、と思ったんです。食べ過ぎて飽きちゃっているものを無理やり押し付けてもしょうがないですから、トランスに夢中になった人を全員連れ戻すのは無理だと思って。そこからは、日本人のDJが日本人としてできることは何だろう、と考えるようになっていきました。
――それでのちに『ジャパネイション』(日本の音楽で踊るDJイベント)を立ち上げるのですね。
DJ KAYA:その通りです。だから、僕の中ではトランスと『ジャパネイション』は繋がっているものなんですよ。今度はクラブに興味のない人たちに、クラブの魅力を紹介したいと思うようになった。それにDJが洋楽を流して、それが盛り上がることだけがクラブではないぞ、と伝えたくなった。当然、アメリカではアメリカのDJがアメリカの曲をかけていて、ヨーロッパではDJがヨーロッパの曲をかけているわけです。本来のクラブの感覚で言うならば、「日本のクラブで日本の音楽がかかっていてもいいじゃないか」と。カラテカの入江君とDJ ANDOの『J POPナイト』に参加したのも大きな原因でした。2人のお客さんを楽しませようというサービス精神はかなり凄かった。その後avexと『JAPANATION』を立ち上げ、渋谷 ATOMのバックアップのおかげで月曜日にもかかわらず、1000人が遊びにきてくれるようになりました。何度も言うように、自分の中ではトランスブームの頃の延長線上だったんですよ。残念なことにクラブ・シーンは受け入れてはくれなかったですけど。「またあいつが変なことやってるぞ」という感じで見られてたんじゃないかな?(笑) けど、年末の『COUNTDOWN JAPAN』とか上海万博の出演など色々先には繋がりました。
――でも、お話を聞いていると、KAYAさん自身は昔から一貫しているように思えますね。
DJ KAYA:そうですね。今では『AnimeJapan』でもmotsuさんとDJをさせてもらえるようになっています。実は今年、海外向けに『ジャパネイション』を復活させようと思っているんですよ。アニメ、ボカロ、J-POP……日本人が作った素晴らしい音楽を持っていけば、色んな音楽を海外に持っていける。ただ、当時『ジャパネイション』をやっていて、「俺は若くないな」とも思ったんですよ。トランスの頃は自分も若くて、横のネットワークを持っていましたけど、今は20代の友達が1000人いるわけではないんで。だから、俺一人では絶対無理だと思ってて、俺じゃなくていいから、誰かがやってくれたらいい、クラブでもプレイされるアーティスト作りたい、そう思っては始めたのがCTSだったんです。だから、自分の中でCTSは、『TRANCE RAVE』のアーティスト版でもあるんですよ。
――実は現在まで、『TRANCE RAVE』で培ったものが線になって続いているということですね。『TRANCE RAVE』をやっていく中で、一番記憶に残っていることと言うと?
DJ KAYA:やっぱり、2004年の『FUJI TRANCE RAVE』ですね。あれもみんなで成功させたイベントでした。『TRANCE RAVE』が河口湖でレイブをやるからといって、『FUJI ROCK FESTIVAL』のようにすぐに人が集まるわけではないし、このイベントも関係してくれた人たちの合同パーティーだったんですよ。『TRANCE RAVE presents men's egg night』チームやブチアゲTRANCEチームが盛り上げて、夜になると僕らが出てくるという感じで。当日は台風で土砂降りでしたね。せっかく満月に開催したのに、月は全然見えなかった(笑)。
――(笑)。満月の日に開催することについては、何か意味があったんですか?
DJ KAYA:あのときは特に理由があったわけではないです。ただ、今から3年ほど前に『TRANCE RAVE』をアゲハのサブフロアで一日だけ復活させたときは、新月の日に復活させたんですよ。新月は空には月が何もない状態ですよね。星占い的に言うと「新しいことを始める日に適している日」で。それもあって、『TRANCE RAVE』を新月からはじめようということになりました。それがちょうど、『FULLMOON RAVE』を日本でやりたいと思いはじめた頃ですね。